試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

yes

 Where are you.

 南口のyes mart.

 改札を出たら直角に曲がり、肯定的な名前のスーパーへとむかう。雨がちの日々の晴れ間には無邪気に確信が持てた。正しさなど天気程度で移ろう主観に過ぎないことがよくわかる。Y'sのアポストロフィがeの省略である可能性。

 yes martとバス乗り場のあいだの歩道に立ってなにかを待っている人々のなかでsunがどれであるのかは肌の色で推測された。顔も知らなかったのによく会おうとおもったものだ。相手は私のなにを見てtoniだと判断したのか、目が合うとすぐに会釈をした。

 地下のサイゼリヤに降りる階段のうえでもしかしてyes martという別のスーパーがあるのかと思ったと僕が言うと、ほんとうはY'sマートというのはわかっているがいつもくせでyesと読んでしまうとsunは言った。

「じゃあここにメニューの番号を」 

席についてすぐ紙片とペンを渡すと、sunはいえいえと遠慮して手の平をこちらに向けた。

「私は店員にじぶんで言いますから」

「いいえ、いまは紙に書いて注文しなくちゃいけないんですって」

すると案外おとなしく「はい」といい丸みのある字で番号を書きはじめたので、素直でよいとおもった。

 

エス

 夕方になると父子連れ立って外へ出る。そのあいだ母は夕飯のしたくをする。

 我々一家はここら一帯が水田地帯だったころの宅地開発の名残として貸され続けている六畳二間に暮らしていた。風呂が設置されていないため銭湯に通うことになっている。いきつけの公衆浴場は十丁ほど離れたところにあった。父の漕ぐ自転車の荷台で背中にしがみついて揺られるのや、買い与えられた小さな自転車に乗って父に追従して走るのや、真夜中にひとりで町内をぐるぐると回って行き場のない感情を煮詰めたことなどがいまでも良い時間のひとつひとつとして思い出される。

 タクシードライバーの父は隔日でしか家に居なかったから、私がひとりで外に出るに心許ない年齢のころにはやむなく母と女湯に入ることもあったし、家の勝手口で清拭して済ませることもあった。男湯と女湯を比べる機会が多く、どちらが目に喜ばしいか自分なりに気づくのもひとより早かった。

 風呂からあがると、はす向かいにあるよしのぶっさんに入る。父は母の遣いを毎回買い間違えた。そのあいだぼくは菓子のコーナーでひとつ好きな菓子を選ぶことを許され、レジに並ぶ父の買い物かごに放る。大抵グミを買ってもらった。

 幼い頃から硬いグミを好いたのに歯並びの悪い私は、体のすべての並びはほとんど遺伝によるものだと身を以て知っている。食生活によって歯列の良し悪しが変わることはそうそうない。父は歯並びが悪く、母は奥歯がなかった。

 母は運命論者にも近いメンデル信者で、ほとんど一生のすべてのことは遺伝によって決まるとでも言いたげだった。あらゆる判断、意志決定にも遺伝が絡んでくるからである。さらには母は環境も遺伝の一部だとし、貧乏は七代祟るをモットーに私に清貧を説き続けるその姿はさながら尼、よそはよそうちはうちの極地、我が家は禅寺であった。

 もちろん教育としてあえてそうしていたのであって、実際の母は人並みに欲深かったし、洋服や宝石が好きだったし、新しいものもきれいなものもほんとうは手に入れたかったし、できれば子どもを甘やかして育てたかった。生活するにあたってはいつも同じ黒い服ばかり着、化粧もしなければ美容院にすら行かなかった。その裏表が理性的で賢く見えた。母のことを賢いと思うものは地球上に私だけだと思う。はたから見れば無学で陰気な女なのだが、それを演じているところがある。自分の欲深さを理解していながら、しかし運命や血には逆らえないからと黙っていまある現実を受け入れる。

 閑話休題、よしのぶっさんとは千葉北西部を中心に展開しているスーパーマーケットを指して両親が言う呼称である。

 当時の私はスーパーマーケットという小売の形態を知るよりも先によしのぶっさんという音の響きを覚えた。親らがスーパーで買い物をする行為を指して「よしのぶっさんに行く」と発音していたためである。言語獲得のかなり早い段階で吉野物産という語を学習したと記憶している。おとうさん、おかあさん、おにいちゃん、よしのぶっさん。

 ただし、吉野物産を吉野物産と呼んでいるのはおおよそうちの両親くらいのもので、ほとんどの人は別の呼称を用いている。この謎について今回は考察を加えた。

 ただこれについて考えるとスーパーマーケット史みたいなことになるし収拾がつかなくなるおそれがあり大変危険だし実際に収拾は付きませんでした。

 

 沿革によると、吉野物産株式会社は2000年6月に株式会社ワイズマートと社名を改めている。そのころ店の正面の電飾看板にも大きく「Y's」と掲げられるようになった。その時点でほとんどの人々はこのスーパーマーケットチェーンを「ワイズ」と呼ぶことにしたし、それが2021年現在まで続いている。

 しかしながら、このワイズという店名は音としては普及したが、意味としては(私の知る中では)うちの両親にしか通じていない。一般の利用者は吉野物産という旧社名を知らないからである。Y'sのYが吉野氏のイニシャルであることを知っている人物は吉野一族と吉野一族とはなにも関係のない私の一家だけである。

 ではワイズの呼称が広まる前までは一般的にどう呼ばれていたか。それが「ESPA」である。

 沿革には1991年のCI導入から店舗名称を変更したとある。革新的な響きの名称であり、時流に乗ろうという意気込みが感じられる。1975年にスーパーマーケット業界に進出してから一切触れられなかった店舗名称を変更するのはチャレンジングなことであったろう。

 しかしそれがわずか九年程度で現在の名称である「ワイズマート」に改められてしまうところを見ると、微妙だったのかと思わざるを得ない。個人的にはちょっと近未来的すぎて食品スーパーらしさに欠けるような気がする。それを言ったらAEON(ラテン語)もヤバいのだが。

 銭湯の向かいにあった店舗は、ネット上のおそらく確かな情報によると1984年開店らしく、2014年に閉店し、その跡地にはローソンが建った。

 両親がこのあたりに越してきたのは1980年ごろであるから、開店当初からこの店を利用していたであろうことがわかる。

 1984年から1991年までのおおよそ7年間が吉野物産期だとすると、9年間のエスパ期のほうが長いということになるが、その間両親は一度も、ただの一度たりともエスパとは言わなかった。口が滑っても言わなかった。近くに住んでいる友人がその店舗のことをエスパと呼んでいるのを聞いたときがはじめてというほどである。

 そんな両親も2000年からのワイズマート期に入ってからしばらくは吉野物産と呼んでいたものの、一、ニ年ののちにはあっさりワイズと呼びはじめたのだから、いかにワイズという音が店舗名称として相応しかったかがわかる。

 しかしながらここで新たな問題が浮上する。母曰く「エスパの前は『主婦の店』というお店だった」とのことである。この「主婦の店」について語りはじめると長くなるからそろそろやめる。

 

すいか

メニューをたたみながら。

sun:テーブルに対して身体を斜めに肘をつく。

 サイゼリヤはよく来たことがあります。むかし友達と一緒に住んでいたとき。

ton:むかし。日本に来てどのくらい経ちましたか。

sun:三年です。はじめては日本語学校に行きました。だからその学校の友達と住みましたね。私だけがいまも同じ家に住みます、ひとりです。みんな卒業のあと、大学に入る、自分の国に帰る、就職する、だから。別々ですね。私はいま大学です。

ton:まじめですね。

sun:いえいえ。日本で働きたいですから。

ton:外国で働くのはすごいなあ。

sun:toniさんは? 大学はどんな専門ですか。

ton:文学部でした。

sun:どんな。いろいろありますね。

ton:英語の。イギリスとかアメリカの。

sun:だから英語のメッセージわかりましたね。

ton:いいえ。中学生程度の英語しかわかりません。全然、喋れないですし。

sun:なんで。喋ってみて。

ton:ハロー。

sun:ああ。

ton:……。

sun:英語を使った仕事をする?

ton:いいえ。

sun:でもなんでですか。だってそれじゃあね、勉強した意味ないじゃないですか。toniさんのメッセージの英語は正しいですよ。ああ勉強してる人と思いました。外国人に差別もありませんね。いい人と思いました。

ton:でもまあ、日本人はそういう人多いですよ。

 我々は外面は良く文化されたように見えるが素養による下支えがあるわけではなく、ただ政治的に刷り込まれた道徳やその時代時代の多数派に従っているだけである。

sun:そうですか。私が大学の勉強のときは全部英語です、授業も、教科書も。英語の文学も英語でしょ? 英語を読めませんとできませんから。

ton:いいえ、ほとんどの場合は日本語で翻訳されたものを読みます。

 なぜかと問われたら、ここはそういう国だからとしか言いようがなかった。日本人は元来排他的で内省的で、無自覚に残酷だと思う。

sun:私はIT関係の勉強してますから、そういう会社に就職するつもりです。

ton:なるほど。計画性がありますね。

 Kくんはいまもあのころと変わらないだろうか。ぼくは変わってしまった、ある程度可能性を失ったから。知識と翼のある人たちはその魔法で、地を這う無知な者たちの背中をなぞれば等しく翼を授けることが可能だと思っているが驕りである。

 

 たまたま御苑前に部屋を借りていて、あとから新宿二丁目の存在を知ったのだとか。本当かどうかわからなさがKくんを象徴していた。

残渣 - 試論

きみの話 - 試論

 知り合ったときにはもうすぐ香港に帰るというところだったから、ぼくたちは急いで何度も会った。Kくんはいつもスプラトゥーンしたり射精したりしていた。ぼくはいつも翼がなくていらいらしていた。地下鉄はいつも陰鬱でいやだった。

 なににそんなに怒っていたのか。だからなんだというのか。さっぱりわからない。ぼくは変わってしまった。無自覚に残酷な日本人になってしまった。Kくんの言うとおり。

 

 両腕で抱えるのも大変なほどのすいか。友達からもらったという。

「お客さまですからね」

薄暗いキッチンで包丁に力を込めるsunのもう片方の手は切り口にべたべたと触れた。ヘアネット着用、服についたゴミを作業室に入る前に粘着シートでとる、切り口には触れないこと、加工のまえには手洗い消毒、手袋をしてからまた消毒、包丁も消毒、まないたは使い捨て、切り始めたらほかの場所に触らない、私語をしない。

 夏にアジア圏の人と話すとよくすいかの話によくなる。日本のすいかは異常に高いということをご存知でしょうか。大体他の国の10倍くらいの値段です。はじめ中国人からそう聞いて、中国ではすいかをよく食べるから安いんじゃない?と思っていたけど、スリランカでも10分の1の値段なのだそう。

 巨大な円弧を差し出されて両手で受け取ったもののすいかというものは、人家で食うのに最も難儀する食い物です。かぶとむしが、よく見ると細かい毛の生えて絵筆みたいになった二対の口器をうごかしながら食べ進んでいる、そのようにもぞもぞ食べているのを見て、sunはまた切り口をつかんで台所に持ち帰ると、食べやすいようにさらに三等分した。

「だめですねわたしは。気づかなくてすみません」

ありがとうございますと言いながら、受け皿もなくテーブルのうえを果汁でべたべたにしながら貪り食う。

「たくさん食べてください。お客さまですから」

台所からその声に続けてむしゃむしゃと聞こえる。スイカってそんなに量食うの? マジ? 出された手前私も口の周りを汚しながら食べなければいけなかった。客として出されたスイカを食べないわけにはいかない。

「将来はどうしますか。どの国に住みたい」

そのすいかが一段落したところで、それがまるで仕事はなにを、ご実家はどちらで、ご趣味はというような突然しても不自然でないたぐいの質問であるかのようにsunが言った。ベッドに寝転がりながら真っ白な目玉だけを下に向けて僕のほうを見ている。

アメリカ? ヨーロッパ? それともアジアの国?」

彼らはそういうことを平気で言う。つまり異邦人にとってみれば日本はそういう状況なのだ。

「僕は日本から出るつもりはないです」

もしもこの国がどんどんおかしくなってしまってかつ僕の性質がそのおかしな輪のなかにそぐわないからとあぶれてしまったときには、しかたなく移住するかもしれない。そういうのを難民というのだが。

「でもそれは、ほかの国を知らないからじゃないですか? 知らないと比べることができないですね。行って、見てみないと」

ああこの人は、日本人特有の性格の悪さを知らないからこういうことを言えるのだ。教養のある外国人ほどそうだ。ぼくたちは、いやぼくは、あなたたちには想像ができないほど酷くこの世に無関心である。どんなに損をしようとどんなに愉快でなかろうと、身の回りの人とたまに笑って暮らすことが許されるならそれしか望んでいない。よくいえばそうだが、悪く言えば無責任で、当然後世のことなどは考えようはずもなく、どうにか迷惑をかけずに死ぬ方法だけを目指して搾取され続けている。

 あないかに天命に不真面目なる人間ぞや、いまおもえばおとなたちは私が自信を持って歩むべしと金の橋をたくさん用意しつるものを、もっと美しく産めそれができないなら産まないことだと川を泳いで渡らんとしつそのくせひとの一貫性のない足取りを非難したりしつ、あまつさえ私の正語をぞ謹聴せよかしなぞとほざきてける。

 それでも私はすいかの皮に1cmもの身を残して片付けさせた。この人とはもう二度と会わないだろうからいいやと思う傲慢と、もっと卑しい食べ方をしないとならないことを私などが人前でするはずがあろうかという傲慢と、二種類の傲慢だった。

 ぼくは相手の翼の驕りをこそ指摘してやりたかったのだ。だからいつも怒っていた。だれかのことを本心から大切に思ったことなんて一度もなかった。ただ撃ち落としたかった。

 sunとは一月後にまた、こんどはコストコのフードコートでピザやチーズバーガーを卑しく食うことになるのを僕は知らなくて、その日は夕暮れにむかむかしながら歩いて帰った。いまごろお父さんは風呂に向かう頃だな、その帰りにスーパーに寄って、お母さんの遣いを買い間違えるんだろうな。私は無自覚に残酷な日本人である。