試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

余燼

niitoniitonii.hatenablog.com

 その人はいま炎上してだめになっていますねと、テーブルの向こうの芸術家が言った。そうに決まってます。私は初めて食べるシロノワールなのに食べ方がうますぎて自惚れていた。こんなことに喜んでいてはいけない。

 右の記事を感情に任せて書いたとき、人間はひとりひとり確固たる自己を持っていて、それに基づいて事物のよしあしを判断していると思い込んでいました。この物書きを誉めている人たちも自己の意見と読解力に基づいてこの物書きを判断しているのだと決めつけていました。こんなものを読んで喜んでいるような人がたくさんいてはもうこの世はおしまいだ、なにも書くのはよそうと絶望するほどでした。おろかでございますね。

 しかし、今になって考えれば、今になってというのはつまり炎上してみればということですが、最初から心からよいと思っている人はほとんどいなくて、多くの人はほかのだれかがいいというからいいと感じていただけだったのです。よかった、みんながわかってくれてよかった、と思う私もまた、個のない、社会的な生き物としての本能で「よかったな」と思っているのです。ほんとうにおろかであります。なにも、よくはないのです。人間の脳はなんのために80億近くに別れているのか。

 この炎によさなどなにもないのです。

 この人がいま責められているのは過去の女性蔑視的な暴言についてのようです。「こういうのがいるから女性を狙った犯罪が起こるのだ」「女性になりたいという叶わない気持ちが女性への嫉妬心を育てたのだ」そういう理解をしている人が多く見受けられます。それはたぶん違うのです。この炎に正しい裁きと救いを求めて近づいていった私は、そもそも私刑に善さなどないことに気づいて再び落ち込みました。火あぶりを見たいと思って歩いている自分の猫背の醜さにも、しかもいざ辿り着いてみれば戦いの始まりを報せるのろしでしかなかったことにも刺され、終わりになりました。私にも真の正しさなどありません。一年前の他責が自責に姿を変えて帰ってきました。おかえり。

 市井の少数者のなかには飛び火に焼け死んでなおこの物書きを尊敬している者もいるでしょう。それは確かにこの人の求心力なのです。多くの人を信者たらしめるほどの力があった。それなのになぜ仲間も、自らも、関係のない人々をも血みどろにするようなことになってしまったのか、ただただ悲しいです。これを繰り返しているだけでは本質的な孤独は深まるばかりです。