ガラスがいい。うつわなどはさらなり。込められたものが透明な液体だとなおのこと。水面の輪郭が表面張力によってさらに淡い色をしている。とても貴重な光輪。
パンツ一丁あたらしいおともだち。アイスティーを作っているぼくはみんなのやさしさに浮かれていた。氷が朝日に溶けてかわいい音を鳴らすたび、そのむこうに透けて見える先を知って恥ずかしくなったり今だけはそれをやめて得意になったりした。
セロリRTA
精一杯平気なふりはしていたが家賃の半分を収める者がいなくなったということはつまりどういうことなのか、小学生でもまずまずの勘定ができることでしょう。それを悟られるまいとして親と話すときなどはいまも同居人と仲良くやっていることにしていた。あと、ほらやっぱりそんなことになるからルームシェアなんてやめたらよかったのにと笑われるのもいやだった。まして同棲だったことなどは訳を知っているひとにすら恥ずかしい。身持ちの悪い知人が一時的に居候していたくらいの言い方をしたい。ひとりで生きるちからないくせに都合よく愚か。
右手に包丁を握り、左手にセロリの芳香を抱きしめる。三隅チーフに命令されるとしっぽが硬く痛い。ほかの言葉を忘れるほど自分の醜さがいやだった。
①頂点の伸びすぎた葉や黄色く朽ちた葉はあらかじめ削ぐ
②株の根本を薄く切り落とす
③最も外側の茎から順に外して水を吸わせ蘇生する
④中心の芽は数本外さずに残し、セロリ束のコードで提供する
⑤外した茎の根本を軽く切りそろえて袋詰めする
くりかえし。
「一等地で売るからな。それが終わったら桃、そのあと葱、あと万願寺たのむぞ」
「もも、ねぎ、まん……はい」
桃はそしらぬ顔をしてひどい褥瘡を負っていることがあるから、提供する前にひとつずつ手のひらのうえでそっと裏かえしておしり部分を吟味する。おしりよし、おしりよし。夏は毎日桃を仕入れるので日々おしりだった。
セロリ切る、桃ころころする。このおかげでわたしは食いっぱぐれずに済んだ。かれらの匂いも手ざわりも三隅チーフの顔も好きで毎日かなしかった。わたしたちは思い通りに動物になれたらそのときがほんとうの自由だ。ヒトの五本指は26年かけてこんなことしかできないのか。
「これっておれが使っていいものなの」
「は? どういうことですか」
三隅さんとパートの岡田さんは仲がいい。作業台のうえで桃のケツまくりつつ背中で聞く。
「これ女子のやつじゃない? なんか家にあったんだけど」
「まあいいんじゃないですか」
「匂いがなんか。やるよ。汗かいてるだろ」
「ありがとうございます」
おしりよし。
そうだ、夏といえばすいかのおおきさはいろいろである。畑を勝手に抜けて歩いてきたやつを捕まえたので。「大きさ順に!」と説教する。
ある日などデカすぎて、切るとき岡田さんが両手で抑えて二人がかりだった。
「はじめての、共同作業〜」と刃を進める三隅チーフ。すいかはふたりの顔に向かってゆっくりと赤い肉をひろげる。涼しい香り。「おいおいなんだよこのすいか、べらぼうにうまそうだ!」
三隅さんは絵にかいたような男の人だとみないう。若いときに会ったらなにこのひと変なひと、と思ったはずだ。しかしもともと見た目もよくいい歳のとり方をしているので、男ぶりを誇張した仕草や言葉が大変似合っていた。少年ジャンプ。
野菜売り場のPOPをラミネートしたものに統一せよと本社から通達があった。そういうことは岡田さんがやっていたが、
「チーフ、トニ川くんにラミネートのしかた教わってきます」
「おう。そのあととうもろこしな」
生まれてから一度もラミネートしたことがないというので、作業場を二人で抜け出して、事務所の机に向かい合ってPOPを作ったことがあった。
「それで、フィルムをここに通すと、反対側からラミネートされて出てきます。それだけです」
「見たことある状態だよ。コーティングされているよ」岡田さんははしゃいで、ラミネートされたてのPOPに触った。「あつ」
「熱いので触らないでください」
「早く言ってね」
「すみません」
あとは切り取るだけというところに、三隅さんが階段を上ってくる音がした。ぼくたちは急にはさみをしっかり握って手元に目を落とし慎重な仕事のふりをした。
「岡田さん、そんなのトニ野に任せて、はやくとうもろこしやっちゃってくれよ。まだ掃除もあるだろ。終わるの」
「終わります。あ、トニ田くんにとうもろこしも教えるんで、これ終わったら行きます」
「おう。そう。わかったよ」
三隅さんは机の上の書類を二、三枚ぺらぺらとめくりながら岡田さんと目も合わせずに早口で言い合ってすぐ去っていった。四角く切ったPOPの角がとがっているとけがをするだろうからと丸く切り取っている僕の手つきを見た岡田さんはなるほどそのほうが親切だねと言って、一度直角に切り抜いたのをわざわざ一枚一枚丸く落とした。
「早く作業場に戻らなければなりません」
岡田さんが慣れすぎてのんびりしているので、おもわず急かした。
「そうね。怒ってたものね。あ、ここチーフの机だ。引き出しのなかに切れはし捨ててやろ」
放課後の西日の幻覚を見た。果菜ごときに救われる自我。夏は何度繰り返しても子供のころと変わらないでいてほしい、ほしいし実際に変わっていないもののひとつだ。
絶交RTA
ぽた、ぽた、ことしはじめてエアコンをつけたのは、ひとを家にあげるからにはしかたなくそうした。三十度くらいまでなら我慢して平気で過ごせる体質なのでつけずに過ごしていた。実家にはエアコンなどなかったから。
この古いエアコンは前の住人の残置物だった。ドレン構造がうまく機能していなくて機体の角から水がぽたぽたと垂れてくる。わたしたち愚者二人はバケツを置いて最初の夏をしのいだ。
「冬にはさすがに買いかえるからね」
それまでに仕事見つけてお金貯めないと。当時同居人は無職で金がなかったからそんなようなことを言っていたが、職に就いてからも非正規労働者たる私より多くもらっているはずなのにいつも手持ちがなかった、ぽた、ぽた、二年目の夏も今年の夏もバケツにたまった水をベランダに流して溜息をついているのは、独りのわたしだった。魂で生きていない人のことは平気で見殺しにしたい、残酷すぎるだろうか。嘘つきはきらいだ。
その日の朝で同居人のものをまとめることの全工程が一応終了した。くるくるさんを迎える準備として新しいテーブルやソファを準備して、私の想像する人の家らしさを演出した。
その嘘の部屋のなか、くるくるさんとのともだちごっこをした。「成人式には行かなかった」で書きはじめてから全部を書いてきた日記を読んで一緒に笑った。くるくるさんはゴムのように伸びた。本来の用途とは違うあそび。ともだちになったつもりではしゃいだ。ちいさなころからそうだった。かわっていない。あたらしいおともだち。
くるくるさんの住処とわたしの住処のあいだには川が流れていた。次に会ったときはその向こう岸にある公園で手をつなぎながら、方南町に生えた大きい陰茎やミニチュアの話をした。
「三本映画を見て、一緒にお風呂に入った」
映画やお風呂にこそなりたかった。私はメディアになりたい。急にゴムが気持ち悪くてたまらなくなった。このひとはともだちでもなんでもなくただのひとたらし。またあそぼうね。ちょきん、さよなら。
役所からの便りのとおりにワクチンの予約サイトにアクセスしてみる。わたしたちのターンはまたスキップされた。
心臓
コホコホ。発達した前腕がやわらかな曲線を描いて天井にむかっている。自らの肉を指でなぞって三隅チーフはとうもろこしのどちら側を剥くべきかを、とうもろこしに擬態して説明した。なんだって生き物っつうのはおてんとさんの当たるほうが大きくなってるわけ、当たっていないほうに向かって反る。コホコホ。粒の大きい方を見せたいわけだから外側を剥く。
毛をはさみでカットしてやる、根本をスライサーで切り落とす、汚い葉を剥く。三本をまとめてラップする。最近新しくできるようになったこと、運転、野菜のラップ、君の真似。全部機械に代わるね。いつか。僕って生きてる意味がない、僕以外にとっては。コホコホ。
「おれ、咳するだろ」作業室のすみに置かれた乱雑な事務机にむかったまま、チーフが言った。「アレじゃないからね。不整脈がひどくなって、自然と咽るんだ」
「心臓で咳が出るのですね」
「そうなんだよ。たまに心臓が握りつぶされるみたいな感じがするって医者に言ったらさ、それは逆なんだって」
「逆?」
とうもろこしの向きがたまにわからない。どっちに反っているとも言える。
「心臓が一瞬とまって血液が送り出されずに留まるから、膨らむんだって。そのときの感覚なんだってよ。これやるよ」振り返ると顔の前に、房から数本もぎ取った形跡のあるバナナがあった。「おれの昼飯」
心臓換えませんか。生涯なるべく多くの人とからだを交かんしたかった。
「ここ、切っちゃえば」
バナナの房のつなぎ目。はさみに見立てた三隅チーフの二本指が、切るべき部分をはさんだ。色素の薄い瞳は環状に光を反射している。また遊ぼうね。生まれ変わったらね。