試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

射るな光れ

 「チンポもいらない、ゲイとしての幸せなんていらないから、だから神様、アタシにたらふくメシを喰わせて、日の目を見させて!」というマツコ・デラックスの叫びが天に届き、成就したのが今わたしたちが生きている世界線である。この世を照らす宿命を背負い、孤独を誓った者たちの威光をどこにいても感じられるツールにあふれている時代、令和において我々は、もうそろそろ才能と個性とを見分ける眼を持たなくてはいけないのではないか。

  創るよりも先に学ぼう。そうして学ぶうちに自身の創造力のつたなさに気づき、創る手をためらったまま一生を閉じるであろう賢明で繊細な多くの労働者をさしおいて、ただ達者なだけの言葉でこのひとたちの孤独な魂を貶め、それで自尊心を得るのみに留めるのならばまだしも金を稼ぎ、さも社会的に認められた行為としてくいぶちにしてゆこうとしている人がいる。

 こういう人がまだいることをこのあいだ知ってかなりショックを受け、この物書き本人は確かにきれいな言葉を使うし読み物としては非難する資格も私にはないわけだが、市井の読者たちが創造物を賛美する際の感受性の浅はかさには絶望に近いものを感じ、寝込んだ。

 才能がある(とされている)人のことをはじめてここまで嫉妬した。こんなただ自分かわいさ生きづらさ今の幸せさを日本語が使えるというだけで表明できるその無神経と、デジタル大喝采を浴びて嬉し涙で濡れた「躁」のステージがうらやましい。そう、要するにこれはひがみなのだ。私は正常じゃない、それを知って、だから寝込んだ。

 

 セクシャルマイノリティ売りの物書きが今更自分のかわいそうな話を商品にしてどうする。「セクシャルマイノリティ売り」とかいう表現がセクシャルマイノリティたる私から発されてしまうことの自己嫌悪で体は穴だらけです。もとからもっと穴が空いてれば痛くなかったかもしれない。

 少数者の物書きなどもう何百といるぞ。物書きに限らなければ何千もの少数者が日本語を用いて日本人宛のものを創っているはずだ。だからこそそんな易い世界であってはいけない。どうぞどうぞかわいそうな話を聞かせてくださいでやっていけるならマツコ・デラックスは神にチンポを返上しなかったし、テレビに魂を売ることもなかったろうよ。

 すこし身の上話をすれば生きづらくてかわいそう愛は美しいあなたは美しいとばかりに憐憫と賞賛が降りそそぐ。被害者のふりをしただれかが、どんな苦労をしたにせよ、いままでに獲得した愛を敵将の首のように掲げて、それを物珍しがる人々の拍手で自尊心を得るのは腐敗だ。私の水晶体は生まれつき歪んでいるから乱視なわけだが、だとしてもそう見えてしまうのが今は苦しい。

 

 先人たちの血しぶきに縁取られた愛の輪郭を見世物にするのは、好かんな、これは主張ではなく感情だけど。現代において、もはや愛のいびつなどはなくて、それぞれのふぞろいさが尊重されるべき愛のかたちとして認識されているらしいが、では仮に同じルクス値の愛の輝きを筆の巧みな異性愛者が同じ力量で語っていたとしても、読者たちは書き手を崇めるだろうか。読者たちが求めているのは結局、愛のいびつさそのものではないか。セクシャルマイノリティ売りの物書き自身がその証左となってしまう。

 仲良くない友人らに「実はゲイなんだ」と打ち明けたとき「へえ」で済む人生、彼らが私の同居人のことを「パートナーさん」という呼び名で言及するポリコレ、私がゲイであること自体に悩みこんだことがないのはこれらのおかげである。しかし「へえ」で済まない人もいるらしい。その違いはなんなのか。二人の関係性が勝手に「パートナーさん」にされてしまう、もちろん気遣いでそうなっているのはわかるし不満があるわけじゃないけど、異性愛者だったら絶対に「パートナーさん」とは呼べない関係性があるのに、同性愛者だと自動的に恒久的愛、人間愛みたいなものに書き換えられてしまう。

 きっと同性愛者の価値観にもシフトがあって、同性愛者であることはいまや愛とは全く別の話だと思うよ、思わない? 恋をするには金や経歴や容姿がもちろん必要になってきて、無事愛の領域に達し生涯パートナーさん同士となれるのは真ん中あたりに線を引いてそこから上の合格者たちだけだと思うんだけどどう? 要するに「へえ」で済むのは、別に僕が同性愛者だろうと異性愛者だろうと取るに足らない人間だから、「へえ」で済むのだ。

 なにが言いたいのかというと実際の苦悩は生きること自体、愛すること自体にあるんじゃなかったのか? なんかその、同性愛者であること自体、女の子になりたいこと自体が、かわいそうなのか? かわいそうだって言いたいのかおまえは? おいどうなんだ? プンプン!👹

 騙された気分です。

 僕たちはゲイである以前に人間だし、セクシャルマイノリティ売りの物書きだってセクシャルマイノリティ売りの物書きをやる前に人間である。くだんの物書きを読んで心底落ち込んでしまったのは、輪の外にいる一般的な善人たちが関心のありそうな表面的な問題を、本人のほんとうの悩みとして美化して描いて、商売にしているからだった。しかもじぶんは被害者で、生きづらさを作る人々によって檻に閉じ込められているとでも言いたげで、その檻からの開放の一部始終をお見せし、理解のない人々を悪者として描くという手法である。この装飾が、読む人によっては文章力に見えるらしく、私はその安易で悪趣味な需給の構造に怒り狂っている、そしてこの怒りもただの狂人の戯言にされてしまうのだろうと思えば思うほど失意である。実際そうだけど。

 淑徳の幻想。大抵の人は成熟してるつもりが、かつて誰かが言った正しそうな道徳や主張に賛同しているに過ぎない。私だってそのひとりである。だれも理解があるわけじゃなくて、自分のことを理解ある善い人間だと思いたいだけだ。そういう人に撒き餌する行為を仕事にしてほしくない、せっかく創る才能があるのなら。かわいそうなセクシャルマイノリティ然として書かれた文章を崇め奉るようなことをしているのでは、本当に心から慈しむべきものはなにか、特別でなくても美しいのが人間ではないのか、特別でないひとつひとつを自身が輝いてなお余りある光を以て照らしてやることがある種の人々にとっての使命ではないのか、刃を向けてきた人を遠くから弓で射て喜んでいるままでは永遠に大切な答えをつかめないでいるような気がしてならない。いやまあスケールを大きくしてみたところでただの嫉妬なんだが。な射そ、な射そ。