試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

あんにんどう腐

 一週間で死ぬの嘘なんですって。そうなんだ、どうりでおかしいと思ってたんだよね。人間が勝手に決めてるんですってなのかで終わりって。

 

 

一 日本だけ

 ふたりの韓国人男性が小物をもてあそんで音をたてている。目が覚めていくにつれて今が昼の一時だということが、ベランダの日の高さで体感される。気持ちは朝六時なのだが。

 今更ながらASMRを見るようになった僕のASMRの用途は噂に聞いていたものとは違うかもしれない。安らかに眠れるのでiPhoneで再生したまま寝るようにしている。最初はppomoという人のをよく聞いていたが、最近はveiledという人のを聞いている。

 すぐにLINEを確認したが欲しい人からの返信はなかった。窓の外からみじめな蝉の声が染みこんでくるほど、この部屋にはなにもない。30分でバイトのしたくをしよう。何度風呂に入ってもきれいになれない。一週間洗わないズボンは汗くさいかもしれない。汗くさい。洗濯してハンガーにかけてあるポロシャツをそのまま着る。よせばいいのに安物の香水を鎖骨に垂らす、すっきりするから。部屋の境目には干された服のカーテンが発生している箇所がふたつあり、それらをくぐって脱出する。道を歩くときも電車に乗っているときも、ぼくにもまだこんな気持ちがあったんだといううれしさに酔うほど、最近はだれかのことを考えていたが、手にはなにも掴んでいない。掴んだこともない。

 

 夜、レジのマネジャーから電話があった。優しそうな女性の声だったが「いまレジのしゃいんのひとはいますか?」怒っているのがなんとなくわかった。

「いいえ、残っていません。六時で帰りました」

「そうなんですね、わかりました」

子供に話すみたいな話し方が癪。

「○月×日マイナス一万円の違算出ているんですが、今日はよくわかる人はいますか。上柳さんとか」

みんな二言目には「上柳」である。

 数か月まえ新しいレジ操作の研修の際、講師を務めていたのは関鋼次郎。大きな体躯にこどものような面持ちで、四角い黒縁眼鏡がよく似合う、幾重にもあやういバランスの壮年男性だった。

「なんでそんなこともわからないのか。よく理屈を考えて打ちなさい」

「はいすみませんでした」

実践練習中ひとつ操作を間違えた私を、ほかの老輩の講師が叱った。見ていた関さんは、私が委縮しないようににこにこしながら「俺もよくやっちゃうなあそれ」とはげましてくれていた。すっかり好きになってしまう。それからは関さんのために働いているという気持ち、真面目に働いていればいつか関さんに名前を覚えてもらえるかもしれないという気持ちでやっているくらいだった。

 その関さんも帰りぎわ「そういえば●●店にはもうひとりリーダーいましたよね。上柳さんっていう、あの、こんな」と両手で丸いシルエットを作りながら言った。デブのジェスチャーである。

「まだいるんですか?」

いますよ。ずっといるんじゃないですか? 低賃金でずっといてくれる、それがあなたたちの望みなんじゃないですか?

「もしもし上柳です。お世話になってます。いまビデオ判定してます」事務所にある防犯カメラの映像をさかのぼり、上柳、礼子、私の三人で何度もスロー再生を繰り返し、架空の一万円を追跡する。礼子は一番のベテランなのだがテンパっていたのでマネジャーへの説明は上柳がすることにした。「林田チーフがお客様の手元にすでに返っているはずの一万円を入力してます、現金事故です」

もし私が対応していても林田さんと同じ間違いをするだろうという映像だったので私はただ怖かった。上柳は最近林田さんと仲が悪くて、いや林田さんはいまレジの全員から反感を買っているので、鼻を明かすようで気持ちよかったのか、うれしそう。

 

 家に帰るとめずらしく彼氏がいた。久しぶりに会った気がする。最近はずっと家にいない。24時ごろ仕事から帰ってきて、それから朝までどこかに出かけてしまうのだ。バーに出ているのかもしれないけど確証はない。どうでもいいことだが。髪伸びたねといってくる何気ない言葉にイラつきながら、風呂からあがった私はもうすこしまともな格好に着替え、よく知らないベトナム人に会いにいくために自転車を漕いだ。

 終わった町の終わった駅のまえに「駅前っぽくなりそうだから」という理由で置かれているのであろう環状のベンチに腰かけて、小太りのベトナム人ガリガリの日本人が会話をした。環の反対側は家のない人のベッドになっている。チップスタースーパードライの空き缶。にこにこ笑うのがかわいくて、全く性的なものを期待していたわけではないけれどただ犬や猫にするのと同じようにキスくらいしてあげてもいいかもしれなかった。しかし会ってみたら違うなと彼も思ったのでしょうか、日本語の教科書のようなことを話したり蝉の今際を看取ったりして二時間の30℃を過ごし、握手をして別れた。

 日本語学校行きます。日本語難しいです。私は専門学校に行きたいです。じゃあ日本にずっといて、日本で働くつもりなの? うん、わからない。日本にお姉さんいます。お姉さんお店あります。そっか、じゃあ寂しくないね。私は、日本だけ。日本だけ? はい、日本だけ。

 家に帰ると、かつて私に結婚しようと言っていた男はまたコンタクトを装着した形跡だけ残していなくなっていた。日本だけ。私は日本だけ。

「ふうん、そうですか」

面接官の豊田というババアの顔がフラッシュバックした。数日前のこと、私のひとことひとことに「ふうん、そうですか」と無表情のババア。ふうん、そうですかのあとには豊田が次の質問をするまでの無音が数秒続くのだった。

「自分の性格をひとことでいうとどんな性格ですか」

「えっと〜……ウフッ、すみません」

普通に不採用だった。

 LINEを開いた。だれともつながっていないラインを。だれか。あの人と僕とをつなぐラインなどはこの世にはなく、全員と私とを隔絶する境界線を示すラインだけが過去から未来数十年間を精美に貫いている。

 

二 蒸し鶏

 次の休みにはくせえ寝具を洗おうと決めていたので実際にそうすることにした。シーツはまだ冬用のもこもこしたものだったし掛け布団も出しっぱなしだったので、それらを全部浴槽で踏んで洗って、洗濯機で脱水して、ベランダに干した。燦燦の日差しのなか寝具を干すのは苦労だった。

 それからその日がしずんでいくにつれて、独りでいるこの部屋が案外ゆっくりと陰っていく様をじっと眺めた。膝を抱えて眺めた。完全に闇となったあと、なにも食べていないことに気づく。コンビニで2000円分の食糧を買い込んだ。酒も買った。部屋に戻って食べながらツイキャスを起動した。なにも言わずに自分を映す。だれも見ていない。ここにある使えそうな道具を思い浮かべる。でもそうしようとは思わなかった。酒にも酔えなかった。体ひとつで布団に転がって、窓のそとに視線を向ける。今日寝ることを考えずに洗って干してしまった枕が、まるごと蒸した鶏みたいな姿をして紺の夜空をぷりぷり飛んでいく。

 

三 ピアス

「細いから気胸とかならないですか」

壁の小窓のむこうから大花さんが言った。ぼくは出納室の机についたまま、机より少し高い位置にあるその窓から金が出てくるのを待っている。

「健康診断のときに内科の先生に言われますね。気胸の体形をしてるので心配ですって」

「結構多いので気をつけてください」

「わかりました」

窓から手が出てきて、金の入った袋が落とされた。それを受け取り、小銭をじゃらじゃらしたり札をぱらぱらめくったりひととおりASMRをして、金庫にしまう。これをしていいのは社員を除いては上柳と私だけということになっている。売上金になにか問題があったときに責任の追及がしやすいように、また場合によってはすぐに首を切れるように、バイトがやる制度である。

「聞いてください、私ピアスしてたじゃないですか、でも今日はつけていないんです」

ふうん、そうですか。大花さんのことは好きだ。ちゃんと自分の心があって良い子だと思う。でも今は昨晩というか、今日未明、あの人からひと言だけ送られてきたLINEのことを考えていた。「女と」女と?

 このあいだマネジャー来てたじゃないですか。ああ、現金事故の調査です、林田さんの。はい、そうなんですけど、たぶんあの人が私がピアスしてるって林田さんにチクったんですよ。え、でも礼子もピアスしてない? はいあの、ピアスって決まりがあるんです、礼子のピアスは小さいやつなんですけど、私のは大きいのでダメなやつなんです、それは私もわかっててやってるんで、普通に直接言ってもらえれば反省するんですけど、なんか今日出勤したら事務所に書きおきあったんですよ、お客様からピアスについてのクレームがありましたって……陰湿じゃないですか? お客さんはみんな褒めてくれてるんです、似合うねって。

「女と寝た」

「やっぱりヤリチンなんだ😢」

「まあね」

「ぼくとは寝てくれないんですか?」

「逆になんで来ないの? 待ってるが?」

くせえ布団に寝転がりながら今日一日のことを振り返る。そういえば大花さんがレジを打っているところを見ていると、男性客から声をかけられていることがよくある。ピアスのことを褒めてくれるというのも男性客だろうか。

「好きです。ずっと考えてるんです」

「えらい!」

「どうしたらいいでしょうか」

「自分で考えようか。まずは俺を養う」

「むなしい」

「こういうのは嘘で、実際に会ったら普通ぶると思う」

「あなた普通ですよ」

「普通にとらわれている」

「とらわれているんですか?」

「普通とか常識を押し付けてくる人が苦手」

「しかしあなたにはそういう人たちを黙らせるだけの力があるのでは?」

「まあね」

「じゃあよくない? おやすみなさい」

ツラちゃんがだれかにブロックされたとつぶやいている。だれか見た目のいい人が「ワロタ」とリプライしている。なんだかとても遠い国のできごとのように感じた。iPhoneを投げたら着地点が国境だ。ツラちゃんには元気でいてほしい。離れていてもどこかで必ず元気でいてほしい。私は、日本だけ。

 

四 音読

 店長から突然電話があり、本日出勤するようにと慇懃に頼まれたので承諾した。忙しいのは好き。余計なことを考えなくて済むからだ。自分では正直誰よりも労働者に向いていると思うのに、向いていなさそうに見えるだろうか。

 上柳に発熱が見られ、即座に本部報告。PCR検査の結果が出るまでは出勤できない。店管理職かリーダーがいない状態では営業できないので私が出るしかない。私が店についたとき、社員の鈴木くんが抱きつくような形で近づいてくるので撫でてあげたかった。

「来てくれなかったらどうしようかと思いましたよ」

「来ますよ。でも上柳さん一週間出られないんですよね?」規則では七連勤以上はできないことになっている。「来週はどうするんですか?」

「店長と私が残ることになりました」

「鈴木さんが? かわいそう……」

「かわいそうじゃないよ、仕事だよ」

「すみません。でも店長だけでいいのにと思って」

「店長は釣銭機の操作できないんです。僕が残るしかないですね」

こんなような話をそこらじゅうでした。上柳はみんなのアイドルなのでかわいがられていたが今回のことで人々はさすがに私のほうに同情したらしく、いい迷惑だねと口々にはげましてくれた。

 

 クレーム対応はしたてにですぎないこと。クレームだった場合の舌の形を作ってから電話に出る。

 正常な客であれば私に怒ってもしかたがないのをわかっているから、言葉と態度にさえ気をつけていればいい。客の怒りの大きさに謝罪の深度を変えるのは私の役割ではないのだ。

「毎度ありがとうございます、スーパートンプク●●店●●でございます」

「チラシのクーポン券のことを教えてほしいんですけど💢」

若い女の声だった。最初から声色に怒りが込められている。

「はい、ご不便おかけしております。どういったことでしょうか」そう言って、しばらくしても返事がなかった。「……どのような点がご不明でしょうか」

「わかる人いないんですか?💢」

笑ってしまうところだった。少々お待ちください。とりあえず保留して鈴木くんのほうを見た。鈴木くんもたまたま電話で別のクレームを受けている最中で無理そう。ちょうど事務所を出て行こうとしていた礼子が振りかえるが、表情だけで謝罪をしてそのまま帰ってしまう。礼子さ~申し訳なさそうな顔するのマジうまいからね。ホワイトボードに張られていたチラシをはがして机のうえに並べて準備してから、外線二番に戻った。

「大変お待たせしております……」

「はい💢」

ふうん、そうですか。わかりました💢 チラシの内容を全て音読することにした。案外真面目に聞いてくれる客。鈴木くんの声は接客発声を意識しすぎて落語家みたいな抑揚していた。

 

五 才能

 私を呼ぶ放送が清水さんの声だった場合、レジでは既に客が怒っている。しかも怒りを私に向けてくる。清水さんにはそういう才能がある。

「カードで払いたいみたいなんですけど、そのまま会計機に送っちゃって。言わないからわからないんですよ」

清水さんは客を目の前にそう説明した。この、自動釣銭機で支払いをする子機のことを会計機と呼ぶわけだが、清水さんは会計機にデータを送信したあとの操作をすることができないので私が呼ばれる。

 大変お待たせしました。私が会計機の操作をしているあいだ、客はぷんすこして、なんなんですかあの態度はというようなことをずっと私に言ってきている。清水さんがなにをしたのかは知らないが、お待たせしていること以外のことを私が謝ることはできないので、謝らなかった。

 これが清水さんの能力である。腰を曲げた小さなおばあちゃんが、どこの出だかは知らないがひどく訛って粗野に聞こえがちな言葉を使っているのを見ると、なぜか憐憫の気持ちになって責めることができない。さらに本人に言っても言葉が通じなさそうな雰囲気さえあるので、代わりに言葉がわかりそうな人間のほうに苦情をぶつけようとする。

 

 札束ASMRをしながら、小窓の向こうから聞こえてくる林田チーフのわるくちを聞く。林田さんが異動してきた当初は前のチーフよりも優しくてにこにこしていてやりやすいと評判だったが、いまではそういう楽天的な性格までもがてきとうだずさんだと誹謗されている。今回の違算はチーフ自ら万券の扱いを誤るという初歩的なミスをした結果なので、そしられてもしかたのないことだ。「チーフの機嫌が直るのはまだまだ先のようだ」と鈴木くんが笑う。

 

 家に帰って誰もいないと、欲しい人形のことを思い出してしまい、LINEを確認する。返信はない。蒸し暑いキッチンはかすかに腐臭がする。

 私の家は貧乏で、おもちゃを買ってもらえなかった。だから早いうちからものを欲しがるという気持ちそのものを失っていくように精神が適応していった。たまに欲しくて欲しくてたまらないものがあったとしても、もうこの歳になると手に入らないのは自分のせいだ。手に入るように自分をつくっていくのが大人になるということだからだ、でもそんなのは受け入れがたかった。だって最初から手に入れている人もいるのに不公平だ。

 あの人のInstagramをブラウザでのぞく。衣食住、感じ方、生き方、才能、すべて。シンプルだがありえなさがある。あなたの生活はショーケースで、他人に見せてはじめて成立するんだ。そんなこと言っても皮肉にもひがみにもならない。ままごとではなく実を伴った生活だから。人生を大切にするということはそれがすべてだから。

「お互い好きじゃないことをわかっていて付き合っているのなんて人生を大切にしていない気がして俺はいやだ」

おまえの言うとおりだ。でもその理屈で言ったら私は生まれたときからずっと

リリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ金属的な爆音が耳の奥を刺す。脳がぐらぐらする。耳をふさいでキッチンの床にうずくまった。

 ねえ、ほんとうになに? なんでこんな目に合わなきゃいけないの? もういやだ。だれか助けて、だれもいない、だれか……。

 ……これたぶん火災警報器だ。急に冷静に思う。避難しないと死ぬ。焼け死ぬ。玄関のドアを開けて廊下に出てみると、室内で聞こえる350倍の音量で鼓膜が逝った。耳をふさいで階下に降りようとしたがすぐに一旦引き返し、財布を持ち、エアコンを切り、施錠してから避難した。死を強く想起させる警告音のなかでさえ自分は死を免除されるとどこかで思っている浅はかな自分がいる。

 外に出てみると、親子らしき住人の母親のほうが外から状況を確認し、娘のほうが消防に連絡をしている。ぼくはふらふらと反対側の歩道まで歩いてゆき、縁石にうんこずわりをしてどうにかなるのを待った。

 あとからあとから住人が出てくる。おじさん、おばさん、お兄さん、外国人、外国人、外国人、外国人、おじさん。こんなひとたちが住んでいるんだ。案外みんなちゃんとしていた。ちゃんとしていないのは私だけだ。隣の部屋に外国人がいて週末になるとたまにドラッグパーティでもしとんかというくらいの爆音でEDMをぶち鳴らしているのは知っていたが、まさか四人もいるとは思わなかった。

 しばらくしたら消防車が来て、マッチョな消防隊員が五人くらい飛び降りて出てきたときは最高だった。結局誤作動だった。消防隊員が見れてよかったなあと思った。ほんとうの有事には消防隊員見てる余裕ないし。

 部屋に戻って、意味もなくベランダに出た。急に訪れた静寂が怖い。そうだ、ここは四階だ。ベランダから下を見下ろす。こんなもんか。

 少し冷たい風が吹くから、風上を見あげる。遠くのマンションのシルエットが階段状に宇宙を切りとっている。あれもこれも誰かが創った形なんだ。なんてきれいなんだろう。働き、暮らし、家々にあかりが灯っている。人間は、あなたはなんて美しく聡明な生き物なんだろう。わたしにはとてもできない。わたしにはなにもできない。

 

六 蝉

 焼き鳥屋のちっちゃいおじいさんは店の軒先に屋台を構えて、鳥を焼いたり煙草を吸ったり、たまに店内をうろうろしたり、だだをこねている子供を説得したりする。おじいさんも上柳が熱を出して休んでいるというのに同情してくれて、私がサービスカウンターでたばこを売り渡したのと引き換えに焼きすぎた焼き鳥を紙袋いっぱいにくれた。

「今日は少ないからみんなで分けないでひとりで食べなね」

優しいんだけど、レジとか売上金とか全部、焼き鳥のタレでねちゃついてるのはなんかイヤだった。私の手がおいしくなっちゃうし、小銭を数える機械までタレでねちゃついてきて最近調子が悪いからやめてほしい。

 休憩室に焼き鳥を隠しにいくと、林田さんとその旦那がいた。二人で暗い表情で話していたと思ったが、私に気づくと旦那の白井さんが「こんにちは」と笑ってくれる。林田は旧姓であり、職場では常にそう名乗っている。二人ともまるい。

 白井さんもほかの店舗でレジのチーフをやっている。社内恋愛ということになる。どういう用事か知らないけれど、林田さんには災難が続いているので励ましに来ているように見えた。私が話が聞こえるところに座ると、林田さんが「そろそろ行かなきゃ」と号令し、二人は立ち上がって部屋を出ていった。

 ふうん、そうですか。全員まるい。そうだ、みんなにはちゃんと帰る場所があるんだから、私が心配する必要なんてないんだ。みんなちゃんと元気だ。私は、日本だけ。

 じ……じ……。休憩室のまえの廊下にどこからか蝉が紛れこんでいるようだ。鬱病の蝉だった。たまに泣いているのを聞きながら、ひとりの休憩室でブログを書いた。

 

 14番ショーケースの温度が下がっていないようで、事務所の集中管理装置から警報音が鳴っていた。冷機の点検をしてくれる業者に電話をかけたのが午後19時で、作業員が到着したのは21時だった。最悪なことに、到着したときには温度が正常に戻っていた。病院の待合室でひどく待たされて、なんかその間に体調がよくなってしまったときみたいな焦りがあった。

 作業員に状況を詳しく説明したら、頭を抱え込んでしまった。なにしろ見たことのない機体らしく、異常が起こった状態でないと原因をさぐるのも難しいのだという。

 一応表面的な原因だけでもということでバックヤードの冷機のコントローラを見てもらって、その仕組みについて詳しく説明してもらった。ほんとうは冷機のことなんてどうでもよかったけど、私などに熱心に教えてくれるので、少し感動する。

「ちなみにこちらは閉店時間とかって」

「22時ですけど」

……ややあってふたりで「アーハハ」と笑い合った。「もっと時間をかけて見たいので、また同じようなトラブルが起きたときに呼んでください」その日は報告書だけ受け取ってお帰りいただくことに。

 店長には報告書と一緒に「原因を探るには二、三時間かかるらしいので、早い時間に呼んであげてください」と書き置きをした。

 

 あ、きょうは焼き鳥をもらったんです。食べますか。

 閉店作業をするのを待ってくれていた夜間配置の三人に焼き鳥を差し出すと、彼らはありがとうと言って袋から一本ずつ引き抜いた。東野くんがタレを垂らしたので、休憩室の床も異例のねちゃつきを呈した。

 僕たちは戸締り消灯をして退店したあともしばらく駐車場で立ち話をした。武井は新卒で着いた職を三カ月でやめてアルバイトしに戻ってきていたのだが、それも今日で終わり、次の職場が決まったのだという。

 えらいなあ、ちゃんとすぐに働きはじめられて。ぼくは佐伯氏に言った。若い子たちほんとうに偉いと思うんですぼく、偉くないですか? みんなちゃんと就活したり勉強したりしてるんですよね、バイト以外の生活があるというか、それを全然雰囲気に出さずに、面接落ちたりしても平気な顔してバイト来てるわけでしょう。すごいなあ、ぼくはすごく気にしちゃう。そして武井のような人の言うことを聞かない、楽をすることばかり考えている人間にすぐに仕事が見つかるのが腹立たしい。そういえば武井もまるまると太っている。みんなまるい。おまえもか。

 ぼくたちは蝉の羽ばたきが聞こえるたびにびくっとしながらそちらを振り向いた。

 夜ときおり死の運命から逃避するかのようなむごたらしい羽ばたきを披露する蝉。躁状態のあのひとたちはTimesの黄色い看板への追突と墜落をこのあと何度繰りかえすつもりなのか。

 

七 杏仁豆腐

  品出しをしていたらだんだんレジが混んできて、並ぶ客で棚がふさがれてしまった。様子をうかがってみると清水さんがレシートを持ってうろたえている。返品だろうか。

 次に待っているのは子供を三人連れた夫婦で、旦那のほうが血の気の多いタイプなのか舌打ちをしながら汚い言葉を私たちに聞こえるように言っている。清水さんがなにの対応をしているのかはわからないが、とりあえずこの男を通さないと雰囲気が悪くなりそうだと思い、隣のレジを開局した。

 その一家は子供がまとわりついていてレジを移動することができないようだったので、ずっと清水さんのレジで待っていた。私はとりあえずほかの客を通しながら、背後の罵詈雑言に耳をかたむけてみる。女房も子供もそれで平穏な顔をしていた。どうにかしないとと思った。性交妊娠出産を少なくとも三巡したあとだからもう手遅れだ。

 

 同居人と同居を始めたときあれは去年の七月の暑い日だったが、彼が茨城の仕事を辞めて私の住む町まで越してくるという形だったので自然、茨城から調度を載せてやってきた引っ越し業者のトラックを私が出迎え、彼はあとから電車で追ってくるという運びになった。

 どういう算段か知らぬが、引っ越しの日を入居日にぶつけてきたうえに、鍵わたしと同時刻に業者がこちらに到着するという暴力であった。しかもそれを知らされたのは当日の鍵わたしの時間だった。

 私の場合は実家から近いからどうでもよかったが、そもそもそれは私の引っ越しでもあった。いくらでも時間はあったはずなのに電話もLINEも帰ってこない状態で、道理がよくわからないまま鍵を受け取り、急いで現地に向かったらトラックが停まっていたのでもしかしたらと思って声をかけるまで、業者の人たちは炎天下のトラックのなかずっと待っているつもりらしかった。

 引っ越しが完了してから、母からそうするように渡されていた心づけのポチ袋にいくらか詰め、二人の作業員に渡した。青臭い小僧に待たされて内心イライラしていたであろう作業員たちも、これにはにっこりだった。母が言うにはこれは自己満足料で、他人に優しくするのは自尊心のためなのだ。情けは人の為ならずってそういう意味でとらえている。

 あとから送られてきたLINEには「まあ業者は待たせておけばいいよ」という言葉が含まれていてショックだった。そこには人間に対する根本的な見下しがあった。人形劇や歌舞伎に携わって生計を立ててきたというこの人は、昔気質で義理人情を重んじているようなことを言っておきながら違う、魂がこもっていない。私はそのときはじめて、人生で初めて魂というものの形を逆説的に知った。そして私には彼らを批判する資格のないことも。

 

 清水さんはレシートを持って、私のレジの横に来る。

「領収書ほしいんですって、お客さん。お願いします」

私がいまいるCレジでは領収書が出せない。領収書を出せるBレジのほうを見ると奈三子と裕子がいる。奈美子ならベテランだから私より詳しいはずだ。

「ここでは出せないです。清水さんも知ってますよね」うしろの男性客の舌打ちと地団駄に気持ちを乱されて、きつい言い方をしてしまう自分がいやだった。「奈三子に頼んでください。奈三子ならきっと……」

「奈三子さんに言ったらあなたを呼ぶように言われたんです」

なぜ? と思ったのと男性客が爆発したのは同時だった。ああ、やっぱり。もうスーパーごと投げるしかない。三人の子たちがかわいい今のうちに。東京外環自動車道に向かって投げる。あそこは民家が少ないから延焼の心配はない。やがて国道沿いの消防署から消防車が下ってきて、なかからマッチョな消防隊員がたくさん出てきて鎮火してくれる。私は神に祈る。傲慢な人間をお許しくださいアーメン。

 

 清水さんね、わからないことがあるとすぐに周りの人に頼ってしまうの、みんなが、やりかたを教えないできちゃったのよね、かわいそうだからって言って。奈三子の言うとおり、それが清水さんの能力なのだ。私はかわいそうだからってなにも教えてあげないことのほうがよほどかわいそうだと思うんだけど、そうじゃない? だからあなたからも言ってあげてね、そういうときにはどうしたらいいのか「僕を呼ぶ前にお客さんに謝って、時間稼ぎをして、それから対応をはじめて」って。わたしが言うときつくなっちゃうからさ、ね。

 

「彼女いないんですか?」

ASMR中に鈴木くんが言った。いないですよ、どうして。鈴木くんが異動してきたとき、私と背格好が似ているので見分けがつかないと周りから言われていたが、よく見ると鈴木くんは四肢がしっかりしていて、しなやかだけど丈夫そうな体をしているところが違う。

「モテそうなのに~。近寄りがたいんですね」

どこで覚えてきたんだそんな言葉。高卒でこの会社に入ってきて、いつそんな言葉を覚える機会があったのだろう。

「鈴木さんもモテるんじゃないですか、奈三子がかっこいいって言ってましたよ」

「いや~いい人どまりなんですよね、いい人だけど、で終わっちゃうんです。じゃ、僕はメール確認して帰りますね。あとはよろしくお願いします」

そういって、レジ係の三角巾を外した。前髪が汗で額にべっちゃりとはりついていた。眉毛が繋がっている。

 私は笑えなかった。きのう廊下で鳴いていた鬱病の蝉の声がきょうは聞こえない。だれが、どんな手段で彼を外に出したのかを考えたら、そのときの彼の様子を思ったら、そして普通の鈴木くんを見たら、笑えなかった。手のなかの札束がしっとりと重い。

 そうだ、冷蔵庫に杏仁豆腐があるんです、昼に買ったんですけどスプーンもらうの忘れちゃって食べられなかったんで、あげます。

 

 搬入口の前を通ったら、作業服を着た人がわざわざ私のところまで走ってきて、お疲れ様ですというので誰かと思ったら、昨日冷機の点検に来てくれた人だった。「あ、こんばんは」私の書置きを見た店長が今朝、呼んだのだという。

「きのうはどうも」

「いえこちらこそ、暑い中すみませんでした。それで」

「はい、基板がだめになってました。とりあえず配線で隣の冷機とつないでおきましたのでこれで大丈夫です。根本的には基板を交換しないといけません」

「そうでしたか。原因がわかってよかったです。ありがとうございました」

深く礼をして別れた。この人の親切さが愛であると信じたかった。仕事への丁寧さに愛が宿っているのだと信じたかった。透明なスプーンをとりに行くため、レジへと走る。

 

 サービスカウンターから清水さんが出てきて、申し訳なさそうに頭をさげてくる。

「どうもすみませんでした。お先に失礼します」

「いいえ、おつかれさまでした」

去っていく清水さんを見送る。カウンターに立っている奈三子はうつむいている。

「私から言っておいたから。どうもすみませんでした、上柳くんいなくて忙しいのに」

「いえ、とんでもないです。ありがとうございます」

透明なスプーンとりに来たくらいなんで。そうだ、愛がここに宿っていると信じたかった。

 

 冷蔵庫から杏仁豆腐を取りだした。杏仁豆腐というと給食でよく出てきた、ひし形に切られた味のない消しゴムみたいな食べ物を果物やシロップでごまかして食べてる苦行みたいな食べ物というイメージがある。しかしこのひとはカップのなかにみっちり、杏仁豆腐だけが詰まっていて重かった。豆腐部分だけで味はどうするんだろう、食べてみる。それで思った、これは、白いプリンじゃん。こんな杏仁豆腐があるんだ。これは白いプリンだ。

 甘い汁を鼻をならしながら吸ったとき一瞬、脳が爽やかだった。愛を見出さなければ。ここには八日目も九日目も、死ぬに死にきれない求愛の悲鳴が降りつづくのだ。