試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

贋具

 でもね産みの痛みは出れば終わるものだから、そうでもないのよ、それより痛い病気はたくさんあるよ。わたしの母は客観的な視点を持っていて、現象を不用意に美化しない。だから私も、自分が尊くなり得る方向に素描の線を曲げたりなどしないようにものごとを捉えてゆきたい。

 

 

 

なかったこと

 体が動かないので寝たまま電話をかけたら鈴木くんの声だった。

「まいどありがとうございます、スーパーとんぷく鈴木でございます」

「お忙しいところ恐れ入りますが」

「あれっ! どうしたんですか、電話なんかしてきて」

声だけでわかるんだ。うれしい。エッチしたいよ鈴木くん。鈴木くんのはじめてのエッチどんなんだった? 鈴木くんの繋がったげじまゆぺろぺろしたい。死にたい。殺したい。それらは異常で危ないかもしれないが、エッチしたいのほうがまったく正常なのにだめなのなんででしょうか。

「大丈夫ですか? 声が死んでいますよ!」

心配してほしいから自分で殺しているとしたら? 

「お腹がアレでして、一時間ほど遅れます。お伝えいただくことは可能でしょうか」

「それはいいんですけど、体調のほうは大丈夫ですか?」

やさしいね、まるで悪い秘密を共有しあっている相手にするときのようなやさしさなんだね。

「ご心配。すみません」

「無理そうだったらまた連絡してくださいね」

指先に、ゆうべの見知らぬ老体の、アナルローズの感触が、残っているから、休みます。鈴木くんになら言ってもいいかな、いいえぼくにはもうなにも失うものなんてないからそれは同時に、守るべき秘密すらないということを意味する。

 

 待ち合わせ場所に現れたのは写真とは違う男だった。30歳という年齢も嘘らしかった。なにか、皮膚、アトピーなどで掻きこわした黒い皮膚から、オブラート様の角質がきらきらとはがれおちたりしていた。そこにホテルがあるよ。へえ、そうなんですね。明日は昼まで寝ようか。詐欺なのにあっけらかんとしたものだった。堂々としすぎてなにか怖くて指摘できなかった。あまり言葉が通じなかった。妥協して、ぼくの相手をしてくれるようなひとはみんなそうだった。値引きのシールを貼るときは、もとのバーコードをしっかり隠すこと。レジでトラブルになりますから。

 無理矢理腰を振らされた。これが生涯二度目のタチだった。一度目のことをあたまの端っこで想起しかけた。だれも相手にしてくれなくてふてくされの僕の奇形ちんぽが、よく使い込まれた捲れ肛門に吸いこまれる。それが得意なのか、ぎゅうぎゅう締めつけられて、曲がりちんぽは痛がった。折れちゃう。キモい、くさい。

 嘘、写真、コンプレックスの裏返し。このおじさんはかわいそう。ぼくもかわいそうなおじさん。かわいそうな人間同士、愛し合わなければいけないよ。それが愛というものなのだから。そう言ってお前たちが笑っているように感じて、だからもうおしまいだとおもって。

 ブスが終わります。満足でしょうか。あっそうか。これが狙いだったんだ。友達も、アプリを運営してる人もみんな、プライドの高いブスが現実を知りショックを受けるのを見て笑いたかったんだ……そうだね(加藤登紀子)。

 なにこの魂、低俗。

 どんなにまちがっても、いつか王子様が現れて、正しい道に連れもどしてくれるんだって、ずっと夢をみていた。ああ、難しかった。世界はこんなにも簡単に愛にあふれているのに。僕にはレイパーと毛虱しかいなかった。わかっていたけれどとても死んだ。つまるところわかってなかったということだ。愛せないし愛されない。僕の不徳は地獄ゆき。死んだ。

 二、三分掘らされたあとふにゃふにゃになったのがみじめで、暴れて拒否したら、詐欺はしばらく首のまわりをかきむしってぱらぱらと粉を撒いたあとひとこと「帰ろっか」といい、最寄りまで車で送り返してくれた。私は宿代というよりもその律儀への謝礼としてマン札を渡してから降りた。

 出会うためのアプリと、知るためのツイッターをやめた。そうしたら生と死の境界にある粘膜をこうかこうかとなまくらの、孤独がぐりぐり刺し貫こうとするだけの惰性の希死がやってきた。

 

 さっき、ふらつきながら自販機に千円札をいれたのを、なかったことにされました。自信を持ちなさい。胸を張って歩きなさい。そればかり言われていた気がするけれど、大人になったら言われることすらなくて、自信のなさそうな人には実際実力のない人という評価がくだされます。最悪ですね、気をつけましょう。自販機の場合も同じです。一時間働いてもらった千円にすら自信がない。

 商品が手に入ることも千円が戻ってくることもなく、ただなかったことにされた。僕はどうすることもできない。でも慣れてしまっていてなにも感じなかった。ぼくだってきのうのおじさんのこと、なかったことにしているよ。

 なかったこ・と・に♫

 なかったことにしたり、なかったことにされたりする一生を神様と約束したのかよ、わたしたち。

 不平等な気がして。それともぼくが身勝手なのかも。

 

 

 

うそのこと

 赤い線路は途中で二股に分かれていて、終点も二つある。

「きみの童貞がほしいな♫ 試してみない?」

そのかたほうの終点で、おじさんはぼくを待っていた。地上に出てきたぼくを見つけ、片手をあげてにっこり笑ったときのおじさんの短い手足はキューピー人形のバランス。写真で見たのとおなじ、ラウンド髭生やした赤ちゃんだった。

 だって日当たりだけで選んだもんこの部屋。高層階の一室は、巨大な窓のすぐ下にベッドが置かれているから、最中ずっと外から見られているようでおちつかなかった。おちつかないまま挿入した瞬間、

「入ってるのわかる?」

「よくわかりません、すみません」

「あはは、そっか……あ……」

それまで飽き飽きしたように愛撫につきあっていただけのおじさんが、にわかに嬌声をあげ、顔を赤らめて射精した。ぼくは怖くなってすぐに抜いた。いかなくていいのと聞かれたけれどいいですといってとなりに身を収めた。そうすると窓のそとから見えない位置だったので、すこし落ち着いた。

大森靖子好きだっていっていたね」

「はい。好きです」

「最近、若い地下アイドルとかシンガーとかの女の子と話すと、大体大森靖子フォロワーだったりするもんね」

口のなかに含んだときのおじさんの性器のもちもちした贅沢感を思い出して、うらやんだ。あおむけのまま話すおじさんの横顔は、さっきまでの紅潮がうそのように色白で、髭がよく似合う。

「でもわたしはそういう女の子たちにはね、厳しく言ってるんですよ、大森靖子の真似をしちゃだめだよって。あの人は頭がいいから計算してメンヘラをできてる、それをパフォーマンスに昇華できてるからいいけど、きみたちには難しいからねって」

おじさんは、ほかのおじさんとは違って、ぼくのことをほめそやすことも、自分の話をすることもなく、ひたすらに好きなものの話をした。好きなものの話が、おじさん自身の話でもあった。

「大学ではなにをやってるんだっけ」

「英文学です」当時私は卒論がめんどくさくて留年していた。「もともとジョイスの意識の流れの手法とかになぜかあこがれがあって大学に入ったらやろうと思ってたんですけど、意味わからなすぎたのでウルフに乗り換えました」

ジョイスはねえ、ぼくもフィネガンズ・ウェイクは日本語訳買いましたよ。あ、そうだ、残像に口紅をっていうの知ってる? 筒井康隆の」

本棚から『残像に口紅を』を持ってベッドにもどってくる全裸のキューピー。ぷるんぷるんしている。ぼくはベッドに腰かけたままぱらぱらとページをめくり、キューピーはその頭のうえから注釈をした。

 次に小泉今日子のエッセイの、冒頭の一節を読むようにいわれ、ちゃんと読んだ。猫の話だったがよく覚えていない。よかったことは覚えている。

「けっこうエグいっすね」

「ね、すごいでしょう。ぼくこれ読んだときびっくりしましたよ」

「へえ、いい」

「よかったら貸しましょうか」

いかなくていいのときかれたときと同じように、いやいいですと言って、おじさんの手に本を返した。

 そのあと渋谷系の音楽の話とか、ツインピークスの新シーズンの話をしていたけれど、裕木奈江が出演しているシーンの上映会が開かれたときにはそのリンチ独特の意味ありげな不気味さとバッドトリップ感にのみこまれそうになりながら、あたまはまっしろ。

 東京だ。ぼくはなんにも好きじゃないんだ。からっぽのじぶんのことが好きなうぬぼれなんだ。ぼくが40歳になったとき、このおじさんのようには生きていられない。おじさんが22歳だったとき、ぼくのようには生きていなかっただろう。

 窓からの陽がオレンジになったころ、おじさんの携帯が鳴った、もしもし、あ、すみません、いま打ち合わせ中でして〜はい。打ち合わせ。セックスの隠語でしょうか。たしかに打ち合わせてはいますが。

「ごめんね、このあとちょっと仕事の人と会わなくちゃいけなくて。どうする? ご飯でも食べにいく?」

「いや、いいです。そろそろ帰ります」

「そっか。また遊ぼうね」

それから連絡はなかった。

 

 線路は二股に分かれている。もうかたほうの終点には小泉今日子を借りたから、もう一度赤い電車に乗るぼくがいる。こっちのぼくは、この新鮮な気持ちを全部書きとめるこころづもりをしながら、上総への一度きりの帰路を泣いていた。

 そのままずっと泣きつづけていまさらあのとき本の一冊を借りていたならとはじめてすこしくちおしいような、正直にいうと悔しいような気がして、この手遅れをつたなく反省した。

 

🌼

   

 このあいだ、バイト先にパンダさんが買い物に来ていた。品出しをするふりをしながらすこしだけあとをつけていらっしゃいませ、丸い頬の肉や子供みたいな目つき、黒くて密集した髪の刈りぎわやずんぐりとよく発達した体躯を眺めたりした。

「閉めときな」

知らないこどもが浴場のガラス製の引き戸を開け放って脱衣所に立ち入ろうとしたのを、パンダさんがとめた。

 あの日、はじめて聞いた声。こどもに話すからぞんざいな口調ではあったが、でも教育的な父親の声色だ。さいしょはもしかして彼が連れてきた子かと思ったが、知らない大きい男に急にしつけられてびっくりして素直に戸を閉めようとする子どもの怯え顔を見たら、やはりよその子なのであった。

 

 中学生のぼくは公衆浴場で男の人たちの裸を見ながらぬるい薬湯に浸かり、水面下でオナニーをしていた。実家が風呂なしアパートだったので毎日銭湯に行ってそのたびにしていた。1000回以上はしたとおもう。

 ぬるい薬湯をやっている銭湯が廃業したあとは、そのなかでオナニーしたらまさしくカマ茹でになるであろう温度の湯船しかない風呂屋で、ただ遠くからあるひとりの男性のことをながめるに留めた。動物から人間を目指して勉強しなくてはいけない孤独な期間、考えていたのはすきなひとと同じ風呂に入れることのよろこびと、かなしさについてばかり。

 ぼくは悪いことはしなかった。悪いことさえしなければ、どんなに汚い片思いも片思いだった。パンダみたいだからパンダさんです。数年をこの病気とともに過ごした。

 

 それだけでいいや、ぼくは。たまにパンダさんと一緒のお湯に入れて、それを想像しながらオナニーして、それだけでいいや。

 それは、自分のことを勉強ができ、ひとから好かれる人間だと本気で思い込んでいたからだが、頭は相当悪いしひとから嫌われてしかいないということに徐々に気づいていったことが唯一の成長だったほど、からっぽの発達だった。脳、海綿?

 

 アナルのなかをディルドでかき回しながらはっきりと、相手がないと成立しないことが体感された。いまは独りの小さな浴室で、すがる先がなくて浴槽のへりに体重をあずけて泣いた。

 僕はたぶん、こんなことしたくないんだろうな。かわいそうな体。ちゃんとした性欲もなく、ただ人間として認められたいがためだけに、ひとと繋がりを持ちたいがためだけに、セックスがしたかったんだね。まがいものだ。真面目に生きても生きられない、道を外れてもだれも拾ってくれない、なにひとつ成し遂げられない、まっすぐ愛せない不能。あのエッセイストのようにかわいそうでもなく、あのツイドルのようにかわいくもなく、ただの変態ですから、ひとりで死ぬしかないのです。異常者なのですから。

 でも死後には異常者のヴァルハラみたいなところにいけるかもしれませんね。さいごの心の支えはそれだ。異常者のヴァルハラを目指せ。ラグナロクに備えろ。

 

 

 

ほんとうのこと

 夜風が涼しくなってきて、せつなげな眠さのまねごとで目を閉じて歩いてみたりすると、秋のはじめの金木犀のあまさがある。

 きんもくせいのにおいがするねと母や兄がいうのだが、そういえば実物を見ることはあまりなく、ただ空想上のきんもくせいという概念が発する匂いだけが、ぼくたちの生活圏をとりまいて季節をしているようなかんじがする。

 このかおりを浴びたときにまぶたのうらにありありと思い描かれる光景があった。アスファルトのうえのおおきなみずたまりを踏むと、無数の星屑が波紋をつくって岸辺にぶつかってたゆたう。天体のまねをして水平な宇宙にただよっている光の粒すべてが、散った金木犀の花だった。

 きょうはみんなやさしい。いつも喧嘩になって終わる藤岡くんとも、藤岡くんが手を上げるのが怖いから太鼓持ちをしてぼくを仲間外れにしてしまう弱い高瀬くんとも、きょうはうまくやれている。こんなふうにいつも過ごせたらな。生け垣の枝々は風が吹くたびに揺れ、あたりいちめんに散り咲いた。

 陽光を閉じこめて結実した花弁の渦をのせて今、15年の時を駆けてきたあの日の風がここまで吹いて届けてくれたかおりのあたたかさを、心の底にかすかに残っていたオレンジの記憶をはなびらでふちどって示してくれる動きのこまやかさを、あなたのもとにもいつか訪れるであろう孤独と死をきっと苦しまずに受け入れられますようにと慈悲の光を降らすなまけがちなかみさまの霊験にみたてて、大切に感じとった。