試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

かたち

 ひらいて、眼球が現れたかとおもうと、じゃり、じゃり「トニちゃんだ……」またとじ、二つの線にもどる。ツラちゃんが寝息を再開したとき、この部屋は水の質量に似て重く透明な朝だ、その隅ではドビちゃんが芋の薄切りを揚げた菓子をゆっくり噛みしめる、砂食ってるような音な。いきものですか。いきものですが。かたちもいみもない。

 

 葛西臨海公園駅は霧か霧雨かをまとって白くぼやけたあいにくの天気、ちかごろ傘が手放せないわね。その日着ていったものは「みどりみどりだね」メリさんのお洋服とたまたまおなじ色だった。わたしは前回、前々回、前前前回出かける用事も毎度同じこの緑のパーカーで過ごした気がするから私の服の色がではなくメリさんの服の色が私の服の色にかぶったといったほうがただしい。

 水族園は感染予防策として時間ごとの予約制となっていた。入園時間を待つあいだ、ガラスの壁のなかに階段だけが透けてみえている無機質な展望施設にとりあえずのぼってみることになって、傘を閉じた。

 とじようとしたしかし、ひとしれず朽ちていた傘の骨たちがにわかにこわれ、みずから分解をはじめた。きゃあ、いやだ。ふたりがかりで慌てているうちに、何万回と見ているのにどんなつくりをしているのかすらよくわからない傘という物の、想像以上に有機的に接合された構造はつぎつぎに機能をやめてゆき、とじもひらきもできない金属製の危険物となった。

「どうしてこんなことに……」

一旦外に出ようとしたところを、メリさんが濡れないようにとじぶんの傘に入れて、私の片手にあった紙袋をあずかってくれた。私は暴れる刃物を両手で抱きながら

「それあげます手土産です」

「え、ありがとう。そんな気を遣わなくていいのに。とりあえず傘どっかにやろうか」

すみません、すみません……。それを人目につかない植え込みの陰にいったん遺棄し、それからなにごともなかったかのようにうふふあははと高いところにのぼった。

 東京湾上空の雲はまぶしく燃え、幻想的といえば幻想的な観望を一応たのしんだつもりにはなったものの、捨てた死に傘のことであたまがいっぱいだった。あとで回収して、管理してる人ごめんなさいといいながら、林のくずかごのなかに形式上ただしく葬った。

 不思議なことに傘が離脱したとたんよわくなる雨。おわりがあるということはおわる理由もちゃんとあるような気がした。あなたたちが生まれたのにはひとりひとり理由があるんだよだなんて逆にいえば、死ぬには死ぬ理由もあるということになってしまわないか。

 ぼくはだれといても永遠に独りだった。ほんとうは理由などなく、ただそうだというだけだ。かたちやいみを与えず受け入れたい。

 

 きょうのめあてはまぐろを見ることだった。円柱状の水槽のなかを大勢で旋回しつづけるまぐろの目はつぶらで、口も半開きで、メリさんがいうにはその開き方も面持ちもひとりひとり異なり個性的で、総合するととてもかわいかった。陰鬱なメリーゴーラウンド。

「さかなみてるというよりひとみてるくらいひといるね」

週末だったこともあり、こどもを連れてきた人々であふれていた。旧江戸川を越えればすぐ夢と魔法の国があるというのに、流行り病のせいでヘッケルの反復説を家族そろって体感させられている。

 まぐろについては一通り満足し、赤や黄など派手ななりをして岩に張りついているだけのイソギンチャクのなかまの展示を見ているとき、わたしには菊のようにみえたから、え〜なんかもはや花じゃんへんなの、海も陸もお花が咲くんじゃんとおもって。

「もうこれ花じゃん?」

とつぶやいたらメリさん「こら」そんなこと言わないのと苦笑い。

「お花みたいだなとおもって」

「ああ、花……そうだよね、花だよね。私だめな聞き間違いをした。なんでもない。花だよね」

かすかにうごめく細かな花弁をにらみながら、メリさんがこれをなにと聞き間違えたのか考えてみる。アナル? ヴァギナ? しかしどれも音も見た目も果てしなく遠くて、花に似た言葉はついぞ思い付かれなかった。

 

 むすんで、ひらいて

 青果安達サブチーフが10月7日発令で経堂店に異動です。後任は西葛西店から村井さん10月14日着任します安達さん、チーフ目指して頑張ってください。

 出納室の壁にはられた緊急連絡先をなにげなく思い出した。

 安達亮

 090-9876-5432

 東京都中野区中野

 最寄り店 中野店

 うかつにエニタイム。もみあげとえりあしの剃りあとに見応えのある男がまたひとりいなくなる。

 

 昼飯を買って休憩室に入ると「あれ」遠野さんと香織が向き合って席につき、女子をしていた。「なかよしだね」

「最近話すようになったんですよね」

「そうなの、ここ最近友達なの」

いつも化粧っ気もなくおばさんぶっている香織がずいぶん小奇麗にしてきているのが気になった。スカートなんか履いちゃって、毛髪も手入れをしてきたと見える。お出かけの帰りだろうか。

 わたしは二人とは別の卓を占めて昼メシしばいていたが、興味がなくても耳に入ってくることには、どうやら香織はだれか男に片想いをしているらしかった。

 わたし、こんなふうにだれかのことをずっと考えてるのはじめてなの、今までそういうことなかったし、前の彼氏は10年くらい付き合ってて、同棲も長かったし。今日朝まで泣いちゃった、いなくなるとおもったら。

 え〜だれの話してるんですか? 冷蔵庫に茶を取りにいくついでにとぼけた。

「え、大体わかるんじゃないですか」と遠野さん。

「安達さんかっこいいですよね。私は男が好きなのですが、わかります」

へえ、そうなんだ。それはとても素敵なことだと思う。全然普通ですよね。うん、あたしも女の子好きだし。うん、わたしも女の子好き。美しいことだとおもうよ。美しいですよね。

 美人ではないレジのおばさんが若手の男性社員にへたな片想いをするのを面白がるような人間のどこが美しいのか。

 他人がなにかをうしなうのを見るのが好き。一日に二度も拾得物の中身の確認をする日がたまにある。鈴木くんの、からだは細いのに大きくて厚みのある手が、小銭と札をカルトンのうえに並べて検数するのを監察しながら、自覚した。

 私が何度めかの失くしものをしたとき、あれは財布だったが当然のように「五千円が一枚、千円が三枚。硬貨が二百、九十、三」返ってこなかった。はじめて目に見える物を失くして気づいた。私には二度と返ってこないから絶対に失くさないようにしないと、失くしたものに関しては早々にあきらめないと、そして失くす覚悟もときには持たないと。

 さあどんどんなくしてね。だって私が返してあげるから。学生証、運転免許証、平成10年生れ、そして矯正歯科の診察券。あとでとりにやってきた子の顔は学生証の写真よりずいぶんよくなっていた。

「両目ともレーシックです」

四月の健康診断のとき、安達さんが視能訓練士に言っていたのを聞いた。香織、安達さんの目はよく見えるらしいよ。

 

「トニ子は彼氏とパートナーシップ結んだりしないの?」

歯科助手をしているメリさんは、矯正してるお客さんがきれいになっていくのを見ていると自分もしたくなると、まえに言っていた。

「うーん」傘の骨の一本が音をたててくずおれ、連鎖して全体が崩壊する。「しないかな。ないですね」

「そっか。そうなんだ」

「あのひとは」もうあのひととも思ってないけど。「なんだろう、たぶん女の人と結婚すると思いますね」

「そうなのか。バイ、バイセクシャル野郎か」

メリさんはいつも他の家のお母さんみたいに話を聞いてくれるいいえ、他の家のお母さんはバイセクシャル野郎なんて言いませんよね。

 結局男とくっついててごめんねというのは、メリさんが結婚を発表した夜に言っていたことだ。前を向いて歩こうとすればしあわせのある方向を向くのがあたりまえである。

 天候がよくなく面白くもないのに「大人800円だって結構するのね」一緒に観覧車に乗ってくれて、なかでインスタントカメラをとった。マスクをしたままのぼくたちの輪郭が窓の外ににじんでいる。かたちがないからこそ。

「こうやっていろんな記録をかたちに残すことにしている」

とじてしまったかも目。

 

 

 

 

 

跋文

ツラちゃんに会いに行った日のことあまり覚えてない。海鮮丼おいしかった。ツラちゃんがしもべにしているドビちゃんといういきものを見た。歌うまかった。ドビちゃんとも話した気がする、夕飯を買いにコンビニにいったときと朝起きたとき。なんかごにょごにょ鳴いててよくわかんなかった覚えてない。いま思い出した。

「おなかすいてたら電子レンジ使っていいよ」

ツラちゃんの友達なのでぼくは。静岡駅まで車にのせてもらった。このまま三人事故死したらウケるなとおもった。やっぱそれはいや。