試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

はじめまして

 六歳児たちが三歳児たちの昼寝の時間に入っていって、寝かしつけをさせられた日があった。また六歳児たちはこれから小学生というものになるのだからと、簡単な算数や大人と話す折の礼節を教えこまれ、忙しかった。

 子供である自分達より更にこどもである三歳児のうちのひとりを、六歳児であった私と紗耶ちゃんのふたりで寝ろ寝ろとあやした。なぜか、ひととおりあやしたが、最終的にはどっちと一緒に寝たいですかという選択を三歳児に迫る必要があった。三歳児は紗耶ちゃんを指差した。これが私のなかで最も古い、選ばれなかったことの記憶である。

 その瞬間、じぶんというものがおおむね選ばれない側にあるのだということが幼心にだからこそまざまざと悟られた。そこからいままでの二十年間の基層に連綿と流れつづけることになった暗い水脈の味だった。 

 

 こんにちは。トニーといいます。知ってる人はツラちゃん、知らない人はツラちゃん以外だと思います。そんなことはないですね。

 ぼくの書き方はいつも気取りすぎです。ほんとうはやわらかいことばで目に染み入るようなものを書きたいのですが、どうしても偽物で塗り固めた嘘の迫力を出してしまいます。文で武装しているつもりなのかもしれない。

 今日はそういうことはやめて、ありのまま、まだお互いのことをよく知らないけれどなんとなく好きかもしれない人がいて、もしもそういう人と手紙なり電子的な手段なりで長い文言のやりとりをするような場合があったとしたらそのときに用いるような、丁寧で親切ではあるがある意味好意を持たれようという邪念の感じられるような、打算的な書き方で書いてみますね。

 なぜかというと、よくないことが立て続いて起こりまして、なにも書くことが思い浮かばないからです。単に運が悪かったで済めばいいですが、本当に悪いときって自分で状況を悪化させてしまい、自分以外誰のせいにもできなくなったりしますよね。それです。

 そういえばこの試論をPCからブラウズしたらデザインがひどくて笑いました。こんなヤバいヘッダーで気取ってたのかよ。私ってなんでこんなに下手なんでしょうねなにもかもが。

 大人になったら書きたいことを書きまくってやるぞと未成年のころは意気込んでいました。なぜ周りのほとんどの読み書きの得意な大人たちが書いていないのか、そのころの私にはわかるはずもありません。

 いまはわかります。わかるというか、原理は解明できてはいないのですが、実際書けなくなったということです。おそらくですが生きたぶんだけ時間的に自分の体積が増え、好き勝手に矢を射ると自分に当たってしまう可能性が高くなってきたからでしょうね。

 書くということはあやういおこないです。(危険な行為ですと書いたけど、字面が怖すぎて消しました)悪いことを書けばもちろん、読み返すたびにその悪さが自分を刺します。良いことを書いても、あとで悪いふうになったときに読み返してみると案外毒になります。書くということの本質は、時間の淘汰作用に反するということです。悪いことも良いことも、記述してしまうと機能を持ちはじめます。普通に過ぎればただの過去になって、消えてゆくのに。

 この文の毒性を中和する方法がいくつかあって、そのひとつがあなたに向けて書くということです。じぶんにではなくて、あなたに。独善的ではありますが、そうすることではじめて薬になる。あなたのではなく、じぶんの。

 

 

 トイレの水が溢れた。悪い夢だと思いたい。

 ということは以下では先日トイレの水が溢れたことについて書くので、読まないほうがいいです。あまり汚いことは書かないつもりですが。

 夕方、今日はじめてのお小水のあと水を流し、トイレから出て手を洗おうとしたとき、なにか妙だった。沢の流れる音がする。トイレのドアを再度開けてみると、沢だった。

 呆然として見ていたが、一度タンクの蓋を開けて風船のような浮きを無理やり上方にタオルでしばりあげ、止水した(仕組みとしてはここを止めても特に意味はない気がするけど)。キッチンのほうへ広がろうとする水の形を見て血の気が引いてゆく。

 汚水を家にあるかぎりのタオルで吸い取る。止水栓が錆びついて動かなかったので、とりあえず水道の元栓をとめた。

 歩いたところや触った箇所をあとで掃除するために記憶しながら、昨日詰まるようなことをしたか思い返すが、思い当たらない。しかしまあ、詰まっているってことは、詰まっているんだろうなあ。住宅の管理会社や母親に電話をした。

 絶望的な状態のまま、どうしようどうしようとしか思えない自分が本当に情けなかった。親が私の歳の頃には既に一子を産み、意思疎通ができるまでに育てあげていた。私は自分の小便を薄めた水が溢れただけで泣いてうずくまることしかできない。

 修繕は明日とのことだった。日も暮れて、なにもかもどうでもよくなっていった。元栓を止めているので他の水も使えず、清めることもできない。詰まりは自然には解消されない様子。タンク内の装置にもなんらかの問題があり元栓を開けるとまた溢れるのではないかと恐ろしくてできない。一旦この活動範囲内を野外だと思うようにして過ごした。

 ツラちゃんが通話をしてくれた。試論を書きなと言ってくれた。不安な気持ちが少し和らいだ。それは嘘で、不安が勝ってしまい僕は便所の話ばかりをまくしたてて、ツラちゃんはだんだん黙っていった。申し訳ない。

 ツラちゃんが不安なときにはなにも助けてあげられないのに、僕が不安なときだけツラちゃんはちゃんと助けてくれるのに、僕はそれでも不安で愚かだった。

 インスタグラムのストーリーに「トイレ溢れて病みすぎて無理」と流したら、大花さんから😂とリアクションがあった。大花さんは今春で看護師として就職し、無事バイトを辞めた。「マジ終わりました。お仕事がんばってください」とメッセージを送った。

 一年前に大花さんが来年一緒に卒業しましょうねと言ってくれてたのに、今私は全然バイトを卒業する気もなく契約時間を伸ばしたり昇級させてもらうつもりでいたりトイレを溢れさせたりしている。

 真っ暗な部屋で、かろうじて横になる体勢をとりながら、水の溢れる悪夢をみそうで一睡もできず、ここまで書いています。

 

 積み上げたダンボールとベランダの空を交互に見上げながら、鳥の鳴き声を聞く。窓のむこうは悪い青色を帯びてきている。一ヶ月かけて同居人だった人の荷物をダンボールに詰めていったら、20箱近くに及んだ。

 彼はある夜不意に帰ってきて、膝をついて、長い間留守にしていたことを謝った。二か月分払っていない家賃については必ず支払うが翌日から舞台の仕事で忙しく、大阪に飛ぶとのことであった。「ずいぶん景気がいいですね」このご時世に、と皮肉を言ったつもりだったが、普通にコロナ禍での演劇界の惨状を語られてしまい、敢えなかった。

「きれいに荷物まとめてもらって。汚くて大変だったでしょう」

「やりたくてやったことですから」

「荷物はまだここにおいておいてもいいですか」

「うん」

出ていくとか出ていけとか直接話したわけでもないのに、まるで新しい彼女がいるのを一度報告したような口ぶりだな。僕はまだ一度も聞いてないぞ。なんとなく知ってるけれど。

 だから「別れる?」と僕から提案したあの夜、「そうかそうか、いやになっちゃったか。それなら別れようか」と満足げに言ってすぐにいびきをかきはじめた彼の心理がどういったものだったのか、いまは多分わかる。 

「せっかくはじめて自分のお金でとおもったのに」

親から教習所の入所料30万をあとから手渡しで補われたとき、そうつぶやいてはみせたが、同居人が家賃の半分を納めてくれなければ30万貯めるほどの器量も甲斐性も私にはなかった。

 コンビニにトイレを使わせてもらいに行く、お礼に午後の紅茶ミルクティーを買う。140円。バイト先だと70円で買えるから、トイレのために70円払っていることになる。

 こんな最後があるなら始めないほうがお得だった。そんなことを思った。相手を利用して生活の基盤を築いていたくせに。

 

 長文で他愛もないことを送りあうのに付き合ってくれるよく知らないひとと、今度公園に散歩にゆく約束をした。まるでお互いに、それを楽しみに生きてしまうと後悔をするから、あまり楽しみにしないようにしているみたいな約束だった。僕のいいようにそう感じているのだけれど。

 「悪いことは重なるなあ」。たとえ小便にまみれて倒れた今日があったとしても、これ以上悪い明日はないとはだれも決めつけられないのです。これは選ばれない側に住む人が持つ強さの間違った例ですね、そうわかっていてもしばらくはなにも信じられそうにありません。

 また元気になったら考えましょう。きっとみんなで。