少し悩んだ結果、メリさんは小さな目玉をいくつか、ぼくは青い毛皮をお金と交換して、動物の部品屋さんをあとにしました。もう片方の手には、タピオカの入った飲み物でも持っていきましょう。
「必ず『普通』に乗ってください。普通以外に乗ると果てしもなく停まらないのでね」
メリさんは自転車を持っていたのでそれに乗り、ぼくは電車に乗ります。メリさんと旦那さんが住むおうちへゆくために。
ホームでしばらく待ったのでタピオカいちごオレがからっぽになってしまった。タピオカごくごく飲んじゃうなんてなんか卑しいかしらと電車に乗りながら少し恥ずかしかったのですけれど、着いた改札の向こうで待っているメリさんのタピオカも空になっていたのでほっとしました。
昼下がり、のどかな住宅街。おなかがすいたので、高架下にある無印良品みたいなコンセプトのカフェに入りましょう。タピオカのいれものが邪魔だから一旦入り口の横のアスファルトの上に置くという……(あとでちゃんと回収した……)。
コンクリートの四角い部屋のなかにおしゃれな机や椅子がならべられている。コーヒー豆やミルが並べられたカウンターのむこうにきれいな店員さん。部屋の両側は一面が窓で、道ゆく人からは中の様子が丸見えになっています。数人のお客さんはだれもみんなこのカフェの無機質で清潔ななりたちになじんでいました。
メリさんが注文しているあいだに一度、窓際の椅子に座っている男の人と目があってしまいました。背は高くなくて、痩せても太ってもいなくて、やわらかそうな服を着ていて、秋の色の毛糸を編んだ帽子をかぶっている。コーヒーのカップだけを机のうえにおいたまま、ぼうっとしていたところ、ぼくを見てびっくりしているような、こまったような、迷惑なような顔をしていました。そうですよね。大きくも小さくもない目、高くも低くもない鼻、まっすぐな唇、まるい輪郭。白くてつるつるしている。かわいい。
ここからいなくなりたい。
細い通路を通ると奥にも同じような大きさのお部屋がひとつあって、そこは半分がお座敷になっています。遊び場のような雰囲気だったのでぼくは、きっとメリさんも、すこしうきうきしてしまいました。
入る前に窓の外からこのお座敷を見てたのしそうだねと言ってから入ったので、ほんとうはそこで足を伸ばしてみたかったのだけど、すがすがしい一家がそのスペースを利用していたので、特にこだわりもなくぼくたちはまるいテーブル席につきました。そしてそのまま頬杖をついて、ひだまりのなかの彼らをながめていました。
ご主人は机にいろいろな紙を広げてペンを握りながら、頭をひねっている。お仕事でしょうか。髭をおしゃれなかたちに生やして、眼鏡をかけていて、やっぱりやわらかそうな服を着て、その下は丈夫な体つきをしているのがわかります。
小柄で派手さのないかわいらしい奥様は少し離れたところで旦那さんの邪魔をしないように、小さい息子と遊んでやっている。お坊ちゃんは元気盛りで、はしゃいでいるけれど、どこか知性の高そうなはしゃぎかたなのです。まるでじぶんのおうちの和室のようにひろびろと店内を利用していても、全く嫌な感じはしないのはなぜなのでしょう。
ぼくたちは別の平和な生き物を見るような目で、その一家のしぐさや表情の余裕ある様をながめてはほほえんでしまうくらいでした。
それから、おうちにおじゃまして、メリさんのお針子の時間です。ぼくはお茶を飲んだりしながらそれを見ていました。でも、背中のボタンだけはぼくが付けました。ぼくが選んだかわいいボタンでした。
部屋にはウルトラマンの歴代テーマソングが流れていました。
とくになにも言葉はありませんでした。きっとお互いに不安でした。
不安。
きっとみんな泣きたい気持ちでものをつくっていて、いまをつくっていて、糸をかけちがえると少ししわよせができたりもします。ほどいてほどいて、やり直し、やり直し、その繰り返しなのだと思います。とてもせつないけれど、それがうつくしい、人間の歩みです。
みにくくてどうしようもない石をけずったりみがいたりして光らせる。大丈夫だよ、大丈夫だよと言い聞かせてなでる。お父さんとお母さんみたいに。私は何度も泣いてきて、そのたびに励まされてきたのに、この人たちは私の前で泣いたりはしませんでした。
二人の暮らしがある小さな部屋のじゅうたんのうえに、ななめに沈んでいく陽がこぼれるほどうつくしかった。
青い首吊りウサギになったぼくを見て、ふたりは静かに笑っていました。近くのお店でご飯を食べたあと、反対の電車に乗って帰りました。改札で手を振るふたりがカワイイだったので、私もカワイイになれた気がしました。
舞浜駅南口イクスピアリ前の喫煙所は夢と現実の境界という感じで、いつまでも眺めていられると思った。せまる終電を追って走っていく人、おそろいの服を着て歩いてゆくカップル、彼氏が煙草を吸いおわるのを待ってる彼女、その逆に彼女待つ彼氏、覚めたくない夢、でも夜の夢の国はちょっと、一日中歩きまわって疲れているから悪夢っぽい。疲れると無口になるので、ただ浦安の海風に吹かれてたたずむだけになってしまう。ぼくたち3人も、ずっと風に吹かれていた。
去年の夏、ほんとうに長い時間、三人であそこに座っていたのは、どういうことだったんだろうと、今になって思う。なにかをつくっているときのようにふたりとも不安そうだった。あのときわたしはどうしたらよかったんだろう。わたしのせいでなにかが滞っていたのか。それとも、わたしがいなければなにかが完成しなかったのか。
二人もきっと忘れてしまっているから、あの時間がなんのために設けられたものだったのか、なにをつくる作業だったのか、いまはもうだれにもわからない。
在りつづけるもの
男同士が出会うためのアプリケーションで、直接家に誘ってきた人とはいずれも、いい時間を過ごせるのだけどその後関係性が発展することはなく終わっていく。
冬になりはじめて寒いなか、久しぶりに谷津駅に降りた。出会ったころの彼氏が住んでいたからぼんやりと土地勘があった。指定されたマンションまで迷うことなくたどりつき、簡素なオートロックの門の前でどうしたらよいかわからず、すこしとどまった。
インターホンから聞こえてきた声は、相手を家に呼び出すような、裸の写真をプロフィールに使うような人とは思えない、私の大学は仏教系だったので一年生のときにかならず仏教について学ぶ授業があるのだけれど、そのときに教えてくれた和尚先生は「私はみなさんに常に敬語を用いて接するので、みなさんも私に対しては敬語で発言してください」とゆっくりと、教壇のマイクを通してよく言っていたのだけれど、それにも似た紳士的なものだったので、安心した。
303号室のドアが開かれるとまず闇が目に入った。とにかく部屋のなかが暗い。その人は玄関というよりも廊下の位置から体を伸ばしてドアを支えて、私を迎え入れる。かすかな香水。ドアが閉まると外界からも遮光されて、ついにすべてがぼんやりとしか見えない。ぼんやりと見えているということは、わずかながら照らされてはいるのだった。
慇懃にお辞儀をされて、私も丁寧にあいさつをして、どうぞと言われるままにリビングに進んでゆき、ソファの上に座る。テーブルのうえで揺れるアロマキャンドルが部屋の壁にあたたかい影をつくる。低いテーブルにコップ一杯ずつのビールを注いだきり、その人は動かなくなってしまった。
「ろうそくの火だけでも結構見えるものですねえ」
「目が慣れてきますからね」
「宝石が好きなんですか」暗くてよく見えないが本棚の一区画を占めているのが石にまつわる本だったので、そうたずねた。「ぼくも好きです」
「宝石は好きですね。いつまでも見ていられる」
「お仕事もそういう」
「いえ、仕事は関係ありません。いまは会社に行きながら、実は宝石の専門学校に通っているんです」
「いいですね」
その人の顔も、背格好も、ぼんやりとしか見えなかった。
アプリで会うときはいつも部屋に呼ぶのだという。「まえに呼んだ人もあなたと同じで話さない人だったから僕が話さなくちゃいけなくて大変でした」ということばが、緩慢に胸を刺した。
まえに呼んだ人もわたしもわたしのあとに呼ばれるであろう人もこの人にとっては一緒のことだ。なにしろ暗いので輪郭を失っている。まえに呼んだ人ともわたしともわたしのあとに呼ばれるであろう人とも同じ暗さのベッドで同じことをするのだ。
それじゃあ、触れてみましょう。それじゃあ、抱きしめてみましょう。それじゃあ、噛んでみましょう。近くでよく見てみましょう、自分の姿を。
滝くんの緑色のTシャツ。体育の授業が終わったあとの休み時間、その日も滝くんはあのTシャツを着てた。
「クリームソーダの色をしているね、Tシャツ」
ぼくがなにげなく言ったのを滝くんは両手で受けとめた。
「感性が女子じゃん」
廊下の向こう側に、女の子の姿を見つけて、滝くんは話しかけに行った。そのころから滝くんはあの子のことが好きだったのかもしれない。あの子が、たまたま、ぼくと全く同じ表現をしているのが聞こえてきた。クリームソーダみたい。
このあいだ、滝くんと居酒屋に入って、はじめてちゃんと話をして、クリームソーダの色みたくあいまいだった滝くんのことをもう少しよく知れたような気がする。
特に思春期のころから、この世界はすべて嘘なのではないかという実存への懐疑を感じて、よく母親に相談していたというエピソードは、彼の本質を表しているように思う。母親から返ってきたこたえが「それはあなたの魂が前世で負ったカルマなのよ」というスピリチュアルなものだったというのも象徴的だ。
お父さんについての話もした。滝くんは薬品の実験に失敗した人みたいな髪型をしている。
「そういうお父さんに反感を持ったりしなかったの、思春期のころ」
「もちろんあったけど、なんだろう。大人になるにつれて別の人間として受け入れられるようになったというか。おやじもおやじで人間なんだなって思えるようになってきたというか」
だから滝くんはお父さんの写真を撮ることをライフワークと呼んでいる。
残したいもの。人間という種にだけ、時間に逆行するための力が備わった個体がまれにいる。それは命以外のものを生みだしたり、だれかが生みだしたものをほかのだれかに橋渡しする能力だったりし、それをたまに芸術と呼んだりする。
滝くんとあの子は今まで一度も繋がっていない。お互いの形が合わないのだという。どんなに、どんなに愛していようとも。
帰るときにも、その人は姿をよく見せてくれなかった。見送りは玄関までだった。
「また遊びましょうね」
触れた感触だけを頼りに、あたまのなかで形を再現してみる。きっと相手の目にもその程度しかぼくのことは見えていなくて、見えなくてもいい部分を想像で装飾している最中かもしれない。
ドアを閉める直前に、冷たい外気に照らされてほんの少しだけ顔が見えた。見えた、と思う。自分の想像で補ったものなのか、ほんとうに見えたものなのか定かでない。もう連絡はないので、確認する方法もない。
すべての命は死んでいく過程にある。醜いものにわざわざひかりをあてることなどほんとうはだれもしたくない。わたしたちはひとりひとり小さなくらがりのなかにこもって、自分だけの金剛に心酔して死んでいく。このかなしさに対抗する手段を彼らと同じようにあなたも、わたしも、見つけてゆかなくてはならないのかもしれない。