試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

ケチャップさなえドリルってマジでなに?

 夜になると蒸し暑さが増して感じますね。

 流し台の上にワンデイアキュビューの抜け殻が二匹分転がっている。きょうはうれしい気持ちだけ書こうと思ったのに。こいつらのせいだ。

  さっき仕事から帰ってきたときにはめがねをかけていたが、コンタクトを装着しなおした形跡を残して姿を消した。キッチンの時計を見ると午前二時。このあいだ休日にバーのほうに呼ばれて久しぶりに足を運んだというから、今日もまたか。15時間も働いたうえにまたバーで店子をするというのだ。ご苦労なことである。

 口腔に歯ブラシをつっこんで歯並びの悪さを思い出した。口内炎ができている。あの人はぼくの内側を知ってもそれでもかわいいと言ってくれるかしら。美しいものをかき集める仕事をしている人にだって、見えない部分までは見えないのだから。いや、だれにも知られたくない。知られてはいけない。

 一年前の夏、みんなに紹介するからといって、店に連れていかれた。カウンターのはしに座って、はじめて入る建物の内部構造を把握する気持ちで周囲との距離を感じながらただ酒を飲み、にこにこしていた。ぼくのことは彼氏ですとだけ紹介された。常連の客らはみんな愉快な話しかたをする人ばかりで、おもしろいのでたまに一緒に笑ったりして。

 なにって、店は店で面白いよね、だってみんなお酒飲んでるし脳溶けてる人しかいないからね。カウンターの向こうがわからLINEを寄こしてきたのがほんとうに許せなかった。

「妙に混んでるし、先帰る?」

先帰る? じゃねえんだわ。

 その日は一緒に帰って、まだ新鮮な畳のにおいがしたこの部屋で、パフォーマンスとして泣いてみせた。泣けばどうにかなると思った。無神経な人がどれだけ無神経か、ある人にとっての愛がべつのある人にとっての愛とどれほど乖離しているかをよくわかっていなかった一年前のぼくは、泣けばどうにかなると思っていた。

 今日までの一年と一カ月のあいだに知ったのだ。ディサローノとティーチャーズを混ぜるのは、お酒の名前をひとつも知らなかったころにメリさんがそっと教えてくれたゴッドファーザーの味を再現したかったから。大森靖子カフェにY美ちゃんと一緒に行ったとき、こちらが要求したウォッカとたまたまハーブソルトをプレゼントとしていただいたので、そしたらあたしは鴨が葱を背負って来たとばかりにトマトジュースを買ってくるよ、AV女優とセックスしたことがあると自慢していた沢田くんが、まだ19歳だったぼくの目の前にマドラーを見せて言った「経血でこういう感じになった」、あの日のブラッディメアリーの色を再現したかったから。

 それらの酒のなにひとつ、彼は知らなかった。そんなどうでもいいことを軽蔑している。あるときママとの営業方針の食い違いについて悩んでいるようなことを言っていたが、特に仕事という仕事ではなかったのだ。またあるとき、カウンターは舞台であり、客がくれた酒はおひねりであり、戴いた盃は空にするのが礼儀なのだというように、客に出された酒で猩々になって帰ってくることがよくあったが、特に仕事という仕事ではなかったのだ。この人のいう言葉、好きなもの、生きがいはすべてなんとなく表層的で、形式的で、それら自体ではなくそれらにまつわる歴史や社会的評価のほうに意味があるのかもしれない。そう思わざるをえない。

 そして私も、そういう空っぽの人間なのだ。美しいものそれ自体を愛することも、写しとる心得も技術もなく、ただそういうものたちへのあこがれだけはいっぱし持って、その気持ちだけを才能に見たてて背伸びをするしかなかった、魂の伴わない空っぽの人間のひとりなのである。

 今日は休みだったので服を買いにいった。ほんとうの目的はあの人とのセックスを想像で描く白布のため。部屋のなかではただの妄想だったものが、町を歩けば恋に変わる。布団と自分の体だけではなにも生まれなかったものが、町の風景にあの人の姿を溶け込ませることができればもうそれは作品になる。この世界にあの人の作ったものが残り続ける可能性があり、それがエッセンスとして、目に映る創造物すべてにすこしずつ流れ込んでいるように見えたならそれが果たして芸術というものであり、それが人間に準備された、時間と老いと死に抵抗したいときの高等な手段のひとつだ。

 

 こうやって書くうちにゆっくりと暗い色の雑念が漂白されてゆき、理解に必要な文字だけが頭の奥のしらぬのに残った。馬鹿。

 うわあ、馬鹿の二文字だ。こんなに馬鹿だと思わなかった。空っぽだ。気持ち悪い。ぼくはなにも知らないんだ。この世のことも、出会い系サイトで少しやりとりしただけのホントは出会えるはずもないだれかのことも、なにも知らないまま知ったような言葉を使うのだけが達者になって、だれにも届かないし届かないことが正しい秩序なのだというのに、それが不公平だとか思いつ託ち顔しつ、技術と魂ある人たちを淫したり妬んだりしながら、ひとりよがりに消えていくんだきっと。

 

真顔日記

 脳細胞に恐怖の大王が降りてきた。毎日毛布にくるまり震えていたあの時期、ぼくはたしか大学受験の只中で、しかもそれのせいではなくてふつうにそれまでの行いの悪さのせいで志望大学に全落ちした。

 その途中、だれかが創ったものに没頭することで恐怖感から逃れるすべを発見したのだが、いくつか条件がある。余計な想像力を掻き立てないもの、裏表がないもの、暴力的な表現が含まれないもの。できれば笑えるもの、優しいもの、癒しを感じるものがいい。インターネットにはそういうものがたくさんあったのでよかった。

 なかでも一番世話になったのは真顔日記というブログだった。ぼくは一日中毛布にくるまって真顔日記を読んでいた。なにを見ても怖いと感じていたのに真顔日記だけは読める。これはすごい。ヒーリング効果のある文章なのではないか。読んで笑うほどの気力はないがただただ読み、最後のエントリまで読み終えたらまた最初から読むというのを誇張でなく一日中やって、読み疲れたら目を閉じて寝た。

 文字を追うことしかできなかった脳も次第に内容を理解し笑えるようになった。このブログを書いているのは上田啓太という京都にいる男の人で、その人はひとを笑かすようなことをやっていて 、オモコロでライターをやっていたらしく、女の人の家に居候をしている。こんな人が日本のどこかにいて、同じ言葉で話したり書いたりしている。そしてそれは嘘かもしれない。上田啓太などという人はいなくて、この文章もだれも書いていなくて、すべてぼくの妄想かもしれない。それでもいいじゃないか。もうどうでもいい。なるようになる。そう思えるようになった。

 

 真顔日記のおかげで無事大学生生活をスタートして一年か二年経った頃、twitterで真顔日記の記事がリツイートされているのを見かけた。「B'zの稲葉と同居しても、自分は歌がうまいと思えるか?」というタイトルがバズりにバズっていた。

 B'zの稲葉の記事は、学部でできた唯一の友人桧野が稲葉浩志を崇めていたこともあり、桧野とも共有したし、ふたりで一通り笑った。カビの生えた布団のなかでガタガタ震えながら読んでいた真顔日記を、友人とふたりで笑いながら読める日が来るなんて。うれしかった。

 この記事をきっかけにというのはわからないが、上田啓太はライター然としていった。いまや真顔日記の昔の記事はnoteで有料化されているようだし、女の人のところに居候していないようだし、かつて情報が少なく実在するのかどうだかわからなかった上田啓太という人の経歴もいろいろなところにはっきりと記述されている。

 喜ばしいことであった。好きだった物書きがライターをして身を立てている。これからも応援しよう。

 

 が、有名になったというのに、ネット上のだれも「ケチャップさなえドリル」については言及していないようだった。なんだか不穏だった。ケチャップさなえドリル、ねえケチャップさなえドリルは? ねえみんなケチャップさなえドリルの話は?

 

 ケチャップさなえドリル。

 かつて上田啓太と検索すると真顔日記の次にヒットしたブログ。たぶん、不思議な内容の、示唆に富んだ短編がいくつかアップされていた……ような気がするのだが、現在は調べてみてもまったく情報がヒットしない。そういうたぐいの小説が好きなので読んではいたが、真顔日記の内容とかけ離れていて同一人物が書いたという確信は持てない。

 ぼくにとっての上田啓太は真顔日記が表地でケチャップさなえドリルが裏地だったが、下支えとなっていたケチャップさなえドリルだけがこの世から失われた。ただ記憶のなかにケチャップさなえドリルというふたしかなタイトルだけがぷかぷか浮かんでいる。不気味だ。

 もしかしたら、ぼくが勝手にケチャップさなえドリルの作者を上田啓太だと思っていただけだという可能性まで浮上してきますよね、これだけ情報がないと。だとしたらすごく怖い。じゃあだれがケチャップさなえドリルを書いたのかという話になるじゃんか。ゾッとします。

 

 そこでぼくは直接上田啓太にメールを送って確認することにした。もうこれ以外に方法が思いつかなかった。

 そして返信があった。ケチャップさなえドリルはあなたのですか? というヤバい内容のメールにも関わらず、上田啓太はあたりまえのようにありましたねえ、ケチャップさなえドリル云々と返信をくれた。

 ファンなので本来なら「上田啓太さんから返信が来ている! 上田啓太さんが私だけに送った文を読んでいる今!」と興奮しろと言われればできる状況だった。しかし上田啓太からのメールを読むと自然と心が落ち着き、特にすごく特殊な技術で書かれているわけでもないだろうに、なんだかこちらもあたりまえのように感じ、あたりまえのようにお礼を返信した。なんだろう、スピリチュアル的ななにかか?

 

 ケチャップさなえドリルは小説ブログだったがすぐに非公開にしたらしい。そしてたしかに、上田啓太が書いたものだという。だあれも気づいていないことを明らかにしたような清々しい得意な気持ちがした。ケチャップさなえドリルは、上田啓太のもの。それだけわかったのでよかった。

 

 いや、なにもわかってなくない? そもそも「ケチャップさなえドリル」ってマジでなに?