試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

そういうふうにできている


ここ一週間体調が悪かった。
かかりつけの医者には行けない。去年熱が出たときに薬をのみきっても熱がさがらなかったため別の医者に変えたことがあって、どことなく気まずくて行きにくかった。

 

夏という作業
ライブハウスの店長さんから、この夏はなにかしたかときかれた。なにかってなんですかと私がいうと、海とか、BBQとか、そういうyeahなもののことを言っているらしかった。なにもしていません、どこにもいっていませんと答えながら、花火大会の二次会に参加したのを思いだした。
高校生の私は文芸部でギャルをやっていた。後輩たちどうしは仲が良くて、いまでもよく集まってお酒を飲んだりするのだという。花火大会の二次会だけ、私は呼ばれて、仲間に入れてもらう。私は後輩のひとりに片思いしていた。
去年も参加したのだけど、そのときはその人のセックスにまつわる話を聞いてしまい、トイレでしばらく泣いた。
今年もそんなことになったらいやだとはちょっと思っていたけれど、まったくそんなことはなかった。出家するようなことを言っていた。でもあんまり覚えていない。この人のことがどうでもよくなっていた。いつもいつのまにか、好きだったものがどうでもよくなっていく。
あのときは、見るたびにどんどんかっこよく見えたのに、久しぶりに会ったら夢の断片を整理しようとしてもうまくいかない寝起きみたいに、自分のあのときの気持ちの正体は、実際に好きだったから恋だったのか、恋をしていると思いたいだけで好きになってしまったのか、因果がわからなくなってしまった。

 

 

そういうふうにできている
さくらももこが亡くなったのを聞いて「えーっ健康オタクって言ってたじゃん、なんでだよー」と叫んだ。
twitterでよく回ってくるのは『もものかんづめ』『たいのおかしら』『さるのこしかけ』三部作である。私は『そういうふうにできている』が一番人気であろうと勝手に思っていたが、私の好みの問題だったみたいで、やっぱりよく売れた本は人気だった。あとは、あまり人気がない系統のエッセイなのだけど、『ももこのいきもの図鑑』も面白かった。
ゆったりしたなかに哲学的な命題とか、命とはなにか、神はいるのか、心とはなにかみたいなものを、俗物的なニュアンスも残しながら論じているところが、メジャーに浸透しているさくらももこのイメージとはちょっと違って、いいとおもう。この人の文章は結構不気味なのだ。簡単で馬鹿っぽい日本語なのに本当のことを知っていると思わせる説得力があるのが、気味が悪い。宗教者のよう。
中学の国語の授業で「文風を真似る」という授業があって、手本としてあげられた作家のなかにさくらももこがいた。ほかは野坂昭如とか、あと評論の人とかだった気がするけれど、なぜこのなかにあの『ちびまる子ちゃん』の作者がまざっているのかと、当時の私は不思議がっていた。そのときはまだ、大学入試後に精神がおかしくなり、現実逃避のためにさくらももこのエッセイを読みあさることになるとは思ってもみなかった。
精神が限界に達したときはさくらももこをむさぼるように読む。これからしばらくはそういうことはできない。読んだらますます落ち込んでしまいそうだから。
 テレビで、アニメのイメージからか、天国でもおどるポンポコリンに合わせて踊ってるでしょうみたいなこという人が出てたけれど、天国で踊るようなタイプの作家ではないと思う。まる子は踊るだろうが、ももこは踊らないと思う。暗い暗い孤独な宇宙のまんなかで、星の曼荼羅をながめながら、エネルギーが波紋になって分散されてやがては魂が消えていく不思議を、じっと目を閉じて感じてるような人だと思いませんか。