試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

ソフィの動機について


 タカシさんの家行って、無言でハウルの動く城見て、セックス中に脱糞して、翌朝追い出されて、家帰って昼寝して、夕方起きてバイト行って、バイト終わりに上柳に「店閉めするの待ってて」とかいわれて嫌だから帰って、お前が帰ったせいで機械が誤動作して帰れなかったみたいなクソみてえなLINE送られてきて、要約するとクソ。こんなに汚い1日はじめて。

 

ハウルの動く城
 正直あの話は、観てるときはちゃんと話が追えてるんだけど、観おわると「結局ハウルとソフィの関係ってなんなの? 荒地の魔女ってなにしにきたの?」とかいうレベルで理解できていない。金曜ロードショーで放送されるたびに思う。だからつまらないと言っているのではなく、単にわたしの理解力のなさを言っているのです。
 というか、ジブリの映画ってほとんどどれもそんな感じなのではないかと思って順番に思いうかべてみたところ、いや、やはりそうではないんじゃない? ハウルの動く城だけ異様によくわからない。気がしている。
それで今回、タカシさんの家で本当に集中して観た結果、わかりにくいゆえんは敵がはっきりしていないことにあるのだった。ソフィがなにをしたいのか、いままでのわたしはよくみることができていなかったのだ。この物語の特長はソフィの戦いの動機にこそあるというのに、そこを把みそこねていた。
 ソフィはハウルに弱くあってほしいのだった。そこには人間のこころ(ハウルは最後に心臓をとりもどしますね)は弱いものであり、だからこそ人間たりえるという論理が埋めこまれているのでした。
ここが理解できないままだと、というか理解していなかったのはわたしだけだと思いますけど、物語の筋がぼやけてきますね。そう考えるとやや複雑な筋書きのような気もします。

 

 原作読んでないので誰が考えたシーンなのか知らないですけど、ハウルが髪の色の魔法失敗してテンション爆下がりして「美しくなければ生きている意味がない」みたいなこというじゃないですか、すごくいいですよね。ハウルの動く城はこういう、ちょっと示唆的な、抽象的なセリフが多い。
魔女の宅急便でキキが、仕事もうまくいかないし恋愛もうまくいかないし風邪はひくしでマジ負のサイクル転がり落ちてるわってなって、おそのさんにつぶやくセリフ「わたしこのまま死ぬのかしら」にも似たフックのきいた言葉ですね。

 

やすしさん

 バイトから帰ったら、母が「やすしくんがめまいがするとかで、入院してるんだって」と教えてくれた。やすしさんは、30歳くらい歳の離れたいとこである。だからほんとうは「やすしお兄さん」なのだが、どう考えてもお兄さんと呼べる歳ではないので、おじさんと呼びたくなってしまう。

だれにでもそういう感覚はあると思うけれど、わたしのばあい、父方からは狂気を、母方からは純朴さを受け継いでいる。詳しく聞くのはいやなのであまり聞かないことにしているのだが、父方の親戚には育児放棄、変死、自殺、殺人まがいの事件が多い。全部母から聞いた話なので面白おかしく脚色されているのかもしれないけれど、まあ、たしかにありえるだろうなあというかんじ。
そんな親戚たちのなかで、やすしさんは、天使のようなひとだったので、わたしも、兄たちも、母も、慕ってやまない。

やすしさん の父親(わたしから見ておじさんなんだけど、会ったことも見たこともない)はやすしさんが高校生くらいのときに離婚して、やすしさん含むこどもたちを捨てた。やすしさんの妹たちは施設に入り、やすしさんは働いて保護者のかわりを務めていた。やすしさんは頭がよく、勉強が好きだったので大学に進みたがっていたのだけど、生活に追われてそれは無理だった。


 大事なところからいうとぼくはやすしさんのことが昔から性的に好きだった。こんなひとがお父さんだったら、ぼくも自分のことをもっと好きになれたのではないかと、会うたびに思っていた。

 いま、「性的に好き」という気持ちと、「父になってほしい」という気持ちを意図的に結びあわせてしまったが、あながち失敗ではない。ぼくはいつも父になってほしい人に性的魅力を感じているのかもしれません。
 会うのはいつもだれかの葬式のときだった。父みたいなカスみたいな人間を「おじさんおじさん」と呼んでついてまわるので、父も気分がよくて、人付き合いなどめったにしないのに大勢のまえで歓談したりする。
それを見て、あとで兄が
「おとうはバカだからな、やすしさんとおなじ人間のつもりになってはしゃいでしまうのだ。やすしさんは偉いし金を稼いでいるからいいけど、おとうは貧乏なんだからもっとわきまえなければいけない」
などと言って、父をくさす。

 

 ぼくたち三人兄弟を横に並べて眺めて、
「たしかにお前だけちょっと雰囲気が違うなあ、細くて」
と言って、やすしさんは僕を笑った。両親も、兄二人も高卒なのに、わたしだけ大学に通っているなどというクソどうでもいいことを、口の軽い父がやすしさんに話してしまったのだった。 兄たちも、やすしさんも、もちもちとしていた。もちもちとしていて、優しそう。わたしだけ、痩せていて、人を殺しそう。
 私たち一家が先に帰るというとやすしさんはあわてて新潟で出土する土器についてとうとうと語りだした。やすしさんにもぼくくらいの息子がいるわけで、しかも優秀なご子息なので、自慢話のひとつでもしたいだろうに、土器の話ばっかりしてて偉いなと思った。
 車に乗り込もうとしたところに近づいてきて、ぼくの手のなかに一万円札を握らせて、
「女の子と一回ご飯食べに行くくらいしかできないとおもうけど、好きに使って」
と言って、走り去っていった。優しい目をしていて、いいにおいがした。


 やすしさんが死んでしまったら悲しい。だれがしんでも悲しいだろと自分で思うが、それがそうでもない。知りもしない、悪い噂しかきいたことのない親戚の葬式に参列しても、前妻が故人の子供連れて葬式に来て、泣いていたりするのが面白いなーと思うだけだった。
 そう、まえに死んだ親戚の前妻が息子を連れてきたんだけど、なんか高校球児だったのね、ほら日本人って高校球児大好きじゃん、高校球児ってだけでひとかどの人間のように敬ってて、それも面白かった。おい、前妻の子供だぞと思って笑ったりした。焼香のときに。
 そんな、わたしも含め愚かなこの一族のなかで、やすしさんだけが、平等に、誠実に、うわべにまやかされずに、全ての本質を見抜いている気がするのだ。徳のある人なので。


 だからやすしさんが死んでしまうのを想像して、やすしさんの葬式ではだれひとり優しい人がいなくて、こんな人たちに見送られるやすしさんかわいそう(まだ生きてるけど)。大切なひとが順番に死んでいくんだろうなと思うと体がおもくなって、なにもできなくなってしまう。

 

 やすしさんの妹さんは若くして病気で亡くなったのだけど、それからというものやすしさんは、不思議な習慣を持つようになってしまった。なにかを買うときの頭数にかならず、妹さんも含めるのだ。5年経っても10年経っても15年経っても「これはあいつのぶん」といって、仏前に供えられないようなものまで多く買ったりする。

 母はそれを「こわい」というが、わたしはほんとうにすごいことだとおもって、それがほんとうのあいだとしんじて、みならっている。