試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

逆流する

 ねぼけまなこのところをむりやり犯された。本当の意味で寝バックだと思った。意識が鮮明になるにつれ、昨日も言ったと思いますけれども準備してないからそこうんこだらけですよと胸中でなんどもひとりごちたが、作業は清潔さ度外視で進んでいった。部屋も身なりもとてもきれいにしてる人なのに、布団もとてもいいにおいがするのに、うんこは平気なのかよ。
 頂点で動きがとまる。工場のポンプがどくどくと律動して、機構Aから機構Bに液体を送りこむ図が連想される。冷却ファンのはあはあという音がおさまると、男ははっと我に返ったようになって時計をにらんだ。やべ、早く行かないと。
 それを号令に、部屋におかれたひとつひとつの物体が一斉にサラリーマンの符号を帯びる。シャツ、ネクタイ、スーツ、ソックス、表彰状、PS4、新書。冷却水を浴びてべちゃべちゃになったぼくを置き去りにして、タカシさんの朝が始まってしまった。
 東京の会社で働いているという。よい会社である。働き始めたときは職を転々とすることなどは考えてもみなかったというが、自分の能力とそれを求めている企業とを照らしあわせながらよりよい場所を目指して歩いているうちにいまがあるのだそう。もうそろそろまた別の仕事を探しはじめるらしい。
 それまでのことが夢だったみたいに、ネクタイをしめるタカシさんの顔はかたくかたくこわばっていった。僕はなにもいわずに見ていた。髭を剃らなくてもいい職場なのかと思ったけれど、休みの日だから剃っていないだけで、月曜日がきたら剃らなくてはならない。
 玄関を一緒に出ると、二軒隣に住む女性と同時だった。
「おはようございますー」
「おはようございますー」
住人同士明るい声で挨拶する。
そういえば、きのうの夜、家にあがるときも、あの女の人はちょうど仕事から帰ってきたところだったので、ぼくたちは目撃されていた。このアパート、二軒隣のパソコンの打鍵音が漏れきこえるほど壁が薄いということに気づいたのは、ひとしきり騒いで疲れて寝にいったあとだったので手遅れだった。
 カジュアルなレディススーツを着たその人は、何事もなかったかのような大人の笑顔をして駅のほうに歩いていった。それを確認すると、タカシさんはさりげなく唇を近づけてきた。自分が不細工だということを急に思い出して吐きそうになりながら口吻をおしあてた。
 駅に近づくにつれて出勤の人たちの波にのまれて、横を見ればタカシさんも同じ、働く人がつけているお面をつけていた。のんきにあほづらをさげてるのはぼくだけ。
 
 おしり全然きれいだったじゃん。モロ感だったね。自分でもやってるの? やってない? 嘘だね~それは。自分でもやってないとああはならないでしょ。結構太いから入らないっていわれてやめること多いんだけど、すんなり入ったもんね。するっと。え、まだそんなに使ってない? またまた~、相当ながばまんだよ。またしようね。じゃ。さよなら。

 同じホームの反対の電車に乗った。車両のなかを歩いていく姿をずっとながめていたけれど、タカシさんがあちらがわに同化したのとおなじようにぼくもこちらがわに同化していた。他人になってしまったと思ったが、そもそも他人だった。ぬるぬると人の間を渡って車両を移動する姿をじっと眺めながめた。

ふたりいる

 たすけてあげたいひとがふたりいる。 
 ひとりは失敗してる。ほんとうはだれかのせいにしたいけど、どんな境遇でも立身できるひとはできるから、自分の場合は怠惰が原因なのだと自責している。承認されている人、有能な人を嫉妬してしまい、それも自己嫌悪を増幅させる。嗤われたくないからひとりでいたいと思っている。自分が悪いと思ってる。ナタ。
 もうひとりは愛されたいこども。だれかがあたりまえに手に入れている愛情をじぶんも得たいからといって、それが手に入らないなら生きている意味もないなどと履きちがえて、すべてを棒に振ろうとしている。笑われてもいいからだれかと一緒にいなければ生きていけない。自分は悪くないとわめいている。
  

 人のながれに逆らって歩く。ハイスクールのカーストでいうとジョックとチアガールといったような風体のカップルが寄りそって体に絡まりつきあいながら駅へ歩いてゆくのとすれちがった。きのうはスポーツみたいなセックスをしたのかしら。
 近所に住む若い中国人の夫妻ともすれ違った。ふたりとも優しそうな顔をしている。通りすぎる瞬間、桃の実の薄い皮のような甘いにおいがした。ベッドもいいにおいがしたのかしら。

 他人にどう思われようと関係ないという人のほうがその人が私をどう見ているかを強く押しつけてくる気がしてならない。
 家に帰ってきてテレビをつけたら、たくさんの人が怪我をしたり亡くなるような大変なことになっていた。かなしいしこわい。