試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

うつわ

 実秋は鏡を見ることを厭う子供だった。小学校の自画像の授業のとき時間がかかりすぎて、教師からよく叱られた。他の人の顔を描きたいと思った。

 鏡を見るのは一日一回、外に出るまえだけと決まっている。あとは顔を見るためだけに鏡は見ないことにしている。いつからじぶんの顔が嫌いだったかわからないが、ずっときらいだった。

 他人の意見は両極端にわかれた。こういうばあい、肯定的な方の意見は畢竟世辞ということになるだろう。憐憫から容姿を褒めてくれているのだ。あるときはブスだといわれ、あるときはなかなか美しいといわれる。良くはないが悲観するほど悪くはないとも言われる。容姿などとるにたらないほど内面が愚かなので、毎回すごくどうでもいいと思う。でも実秋が他人のことを嫉妬するとき、導入はまず容姿からだった。いいに越したことはないと思っていた。

 実秋がバージニア・ウルフという作家を敬愛する理由は、容姿が美しくてもそこまで魅力的ではないからだった。もちろん、生まれが生まれなので内面の貴さがにじみでてはいるが、シルビアプラスとかミナ・ロイとかギャスケルみたいな女性性はない。なんだかもたっとしていて、動物のような顔をしている。そういうところが共感できる。

 

 指も、同じような評されかたをする。

 小学生のときにデブの、調理中のケバブのような見た目の色黒の女子生徒が、その指をからかって笑ったので、実秋は泣いてトイレにこもったことがあった。手を開いてみると、たしかに細長くて、虫の足みたいで気持ち悪い指をしていた。

 でも、こんなに醜いのに、ほかに褒めるところがないからか、技術や知識や感性よりもまず先に最もよく褒められるのは指だった。共寝をすると必ず手がかわいいといわれ、もまれた。

 でも彼はこどものころは知らなかった。ゴキブリの足のような手をだいじそうに愛撫するような感性の人が周りにはいなかったので、じぶんで自分の指を美しいなどとは、いちども、ほんのすこしも、頭をかすめもしないのだった。

 

 小さいころといえば、保育園ではプールの時間が苦痛でたまらなかった。裸になることは実秋にとって耐えがたい恥だった。いま、屈辱を感じる場面においてとっさに死んでしまいたくなる衝動と、あのときの羞恥心とは、比較してみると同じ構成素で成りたっている。

 先生たちは痩せすぎだ痩せすぎだと何度もいい、ほかの子の保護者からは病気だといわれた。

 実秋はこんな貧相で雑な体に生んだ両親をちっともありがたいと思わなかった。親のことを本気で恨んでいるし、育ててくれたことに感謝はしているつもりだが、もし他人だったらこんな人たちははやく死んだほうがいいとさえ思っている。それもみな、じぶんの容姿を否定した人のせいだと思った。そして自分の精神の醜さ、愚かさをそんなふうに理由づけている自分が愚かしい。だから死にます。自死を考えるときにはいつもこの論理が頭を渦巻くのだった。

 

 

 

 

 出会い系アプリのプロフィールに「ガリガリ専」と書いてあると、そうか私は、注記しないといけないような異常な性癖の対象なのだと思わされ、実秋は悲しくなった。あたりまえに、人間として、かわいい、生きていてほしい、花や子供をみて好いと感じることと同じように愛してほしいのに、それは、まだこころが柔軟な時分にはついにはかなわなかったし、このままでは永遠にかなわない。

 それを十代のうちにかなえることのできる資質のある人間と、そうでない人間とでは、別の生き物だと彼は思いこんでいる。たまにあちら側のひとたちが、十代のときには実秋を指差して笑っていたひとたちが、おとなになってから様々なことを経験し、なにかから逃げ、こちらの世界に歩み寄ろうとしているのを見ると、射殺したくなる。

 私達はその境界を一生超えることができないのに、おまえたちはその苦しみも知らないで、あたりまえに憂鬱や不公平さを嘆くな。あたりまえに努力を説くな。その暗い道は、私達が容姿を隠すために、自身を守るために創りだした甘美な道なのだ。わめいて死ね。入ってくるな。音楽に癒やしを求めるな。読書するな。学ぶな。内面を磨くな。死ね。自分の五体満足を婬しつづけた擦過傷に依って死ね。

 

 動物はみな、本質的には物質である。唯物ではなくなったのは、世間が徐々に精神的に啓蒙されていったからだが、やはり本質的には物質なのだと、実秋は口には出さずに結論づけた。かみさまに与えられた器を否定されるというのは、ほんとうはとてもつらい。とてもつらい。

 からだやあたまに困難を持って生まれてきた人々を近くで見たとき、その愛ある心に触れたとき、実秋にはなんどとなくうしろぐらい、だれにもいえない感情が胸中を満たしているのに気づくことがあった。それが嫉妬だということを理解したのは二十歳を過ぎ、こちら側の人間だと自覚したころだった。

 どうしてこの人たちのことはだれもが優しくするのに、私のことは平気で欠陥品の扱いをするんだろう。

 

 生得的瑕疵から、本来器のなかにていねいに詰められてあるはずの心の美しさ、生きることのきらめきはこぼれおちつづける。一生をかけて血は流れつづけ、ただ凄惨な老いとどこまでも孤独な絶対的に孤独な果てしのない無間の死だけが待っているとわかりきっている、最期が見えているこの体を以てただただ息をしていくことの一体どこが、生きるということなのか、なにが生きるということなのか、たまに脳が突発的に無意識的に見せてくれる、あのしあわせの幻想以上の説得力で教えてくれるものはいまはまだ、いや、いまはもうなにひとつない。