試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

ぺろみ

ついきのうのはなし

 

 「あ、このあとブロックされるな」と予感した私はすぐに相手の体の写真をスクリーンショットして保存した。なんとかしてその男の存在を私の世界に残そうとしたのだが、それになんの意味があったかわからなくなったのでここに載せる。

 

 最初アプローチを受けたときはどことなくめずらしいタイプだと思った。私に性的な魅力を感じる人というのは宇宙船内と地球との気圧差で死にそうになっている宇宙人に興奮する人くらい奇特なので、大抵の場合写真や文言から不思議ちゃんな雰囲気が漂っている場合が多いのだが、この人は違った。どこにでもいるスポーツをやっている青年というかんじで、飾り気がなく、わんぱくそうな笑顔をしていて、歳も若いし、男にモテそうな特徴を兼ね備えている。

 すぐに「やろうね」ってなり、それは今週の木曜日(今日のことです)に新宿で、僕が大学の授業をお昼に終えたあと、夕方からバイトが始まるまでのあいだに、ホテルででもとっとと済ませようということになった。かなり具体的に場所や日時も決めたのだ。

「まえにしたのいつ?」

「1か月まえ」

「好きな体位なに?」

「正常位」

 ブスがそういう誘いに軽々しく応じるということは人間としての尊厳を捨て、穴のある肉袋として取りあつかわれることを甘んじて受けているに同じなので、この人からのメッセージは急激に適当になり、オナホに話しかけるひとりごとのようになってしまったし、ぼくはそれでもがぜんよかった。実際にそれくらいしか利用価値がなかったしそれとしてすらも弊社の商品を御利用頂けない状況がながく続いていた。

 

 ソレが、心のある種の一体化を目指しているとして、必要なのは一緒に過ごしたときの一体感とか趣味の共有であったりお互いを尊敬することであったり慈しみあうことだったりするのかもしれないけれど、僕の場合そのどれもおはなしにならないほど点数が足りてなかった。恋とか腑抜けたことゆってる場合じゃない。とにかくいまは肉だ。それでいい。

 「友達がいなさすぎてどうしたらいいの」と相談し、いろんな人から「それで、共有できる趣味とか、好きなものとか打ちこんでるものとか、あるの?」というような反問をされるたびにああそっか、人間性って結局はその人がなにに興味を持っていままでなにをしてきたかなんだよね、就活と一緒じゃんと思って悲しくなった。生まれたままの姿を大事にするのなんてギリギリセックスくらいで、あとはおたがいの経験を提示しあうのが人間関係じゃん。じゃあ無理じゃん。

 

 でも、だからこそ人間は精進するのであって、もしも頑張らないで愛されようとすると、頑張らないでも愛されるような生まれつきの美貌無双になってしまい、ブスにはいっさいの権利がなくなってしまう。私のようなブスはほんとうは文化を知り、教養を身につけ、よい趣味をもち洒落ながら生きなければ人間として認めてもらえないのに、ブスのくせに股開いて待ってるだけなのほんと痛い。

 と思っていたところにやってきた男だったのでラッキーセックスだわーいと喜んでいたのだが、最終的には辿りつけませんでした。

「体の写真見たいな」

というメッセージと同時に、あいての非公開画像が公開される。

 

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僕は絶対に肌をさらした写真は載せないことにしている。2ちゃんねるとかで「勘違いしたキショガリ」として痩せた男の画像が槍玉にあげられているのを見たことがある。絶対に嫌だ。

 だから

「そういう画像は送らないことにしてます、人様に見せられるようなものではないので」

と送った。

「えー、会うの怖いな」

こういうことを言われてしまってもしかたない。相手だって貴重な時間を割いて会ってくれようというのだから。

そして事件は起こった。どんなのがタイプなのかとたずねてみたところ予想外の言葉が返ってきたのである。

「痩せすぎでなければ」

はあ。

 

 はぁ~~~~~~~~ん? 気圧差で瀕死の宇宙人や夏のアスファルトの爬虫類たちの命がけの交尾が好きな人しか私とはセックスできませんよってわざわざプロフィールに注記しようかな? なんのために身長体重の欄があるのかしら~、ただの恥さらしじゃん普通に恥ずかしい。あ、もしかして体重軽すぎてよく「年齢99歳」とかにしてる年齢非公開の人たちと同じかんじの50kgだと思った?

 心のなかでは小気味良くなじっていたつもりが涙が勝手にこぼれていて、いままでのいろいろな容姿に関するいやな経験がぼこぼこ蘇ってしまってゲロを吐いてしまった。3歳のころから容姿についてさんざ言われてきたので、もう限界なのだ。

「それはやめたほうがいいかもしれません。ぼくはすごく痩せています」

「えー。でもやりたい」

「そうですか」

「やめときますか?」

この、相手からの確認は、あとから考えると違和感がある。「やめとく」のは相手であって、私ではない。あたかも僕に一方的に断られているかのような被害的な語感を、突然の敬語から感じた。

「痩せている人が無理ならやめておいたほうがいいです」

このメッセージを送ったあと、親指は、ダメになった脳と切りはなされているかのように冷静に、相手のプロフィール画面を踏み、流れるように上裸画像をスクショした。

 本当にブロックされた。勘つよい。

 

 

 

 

 

明日はちょっぴり悲しいね

 

 あしたはちょっぴり悲しいね。

 そのあとたまたま女友達から電話が来たのでこの一件をあらいざらいはなしたら、電話を切ったあとひとことぽこんと送られてきたメッセージ。雌っぽくて面白い表現だと思う。「きみもかわいく生きててね」みたいなよさを感じる。

 こういうことをちょっぴり悲しいねで済ませてしまうあたりが生理や便秘や膀胱炎と戦っている女性らしくて強いなと思う。

 でもこいつはどさくさにまぎれて彼氏ののろけとかをしてくるし、腹のなかでは「はぁ~~ん出合い系とかやって勝手に傷ついてアイタタタ馬鹿じゃ~~~ん?死ねブス~~~!」と嗤ってるに決まってる。そう考えると味方がひとりもいなくなって、もう人間とかどうでもいいやと思った。3歳のころからずっと自分の体殺したいと思ってたんだけど、ちんこがついてなくていやだとか、まんこがついてないからいやだとか、そういうわかりやすいやつだと病名とかがついてかわいそうだねっていってもらえるのに、私に関してはただただ痩せすぎで病気だと言われたまま病名はつかないっていうみじめなところだけたっぷり味わう人生だからさ、ほんとに容姿についての話禁止ね。もうやだ。

 

 

 

 

本題

 

 twitterで見たのだが、「み」の新しい用法について偉い方がなにか解説をなさっているらしい。「やばみ」とか「つらみ」みたいに、本来「さ」を用いて名詞化すべき箇所で「み」を接辞する用法である。これを名詞化による婉曲表現と結論づけていらっしゃるのが非常に興味深い。

 名詞化ということでいうと(すでに私の文章が変な名詞化で溢れているということはお気づきいただけていると思うが)、まえに外国語学習サイトに、どうしても答えられない質問があった。このような質問である。

 

 

 「あなたのことが好き」という文の「こと」はどういう用法なのか。どういう意味を持っているのか。

 たとえば、「本を読むことが好き」というときの「こと」は、読むという動詞を名詞化する作用があるから理解できる。

 しかし、「あなた」はもともと名詞だから、わざわざ「あなたのこと」といわずに、「あなたが好き」と言えばいい話ではないか。

 

 

 本当にそのとおりだと思った。畢竟これも婉曲表現ですといえばそれで済んでしまいそうなにおいがして恐ろしいのだが。要するに「あなたのこと」とは「あなたに関すること、たとえばそうね、性格、容姿、家庭環境、経済力とかいろいろ…」ということなのか? もうよくわかんないからいいや。

 あと、まだそこまで浸透はしていないかとは思うが、「み」の用法は形容詞の名詞化にとどまらない。

 

 私はやつの裸写真を見たときに思ったのだ。

「ぺろみが深い…」

深い。わたしには深すぎるぺろみ。しみわたるほど深すぎたぺろみがそれを知るまえとあとの世界におおきなへだたりを作った。いままでの私とは決別することにしよう。