試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

听得懂听不懂

 単位のために中国語をとっている。
 語学は好きだ。いろんな言語を学んでやろうと当然のように考えていたが、実際には必修の科目と開講時限が重なり、必修以外の外国語をとるのは物理的に不可能なのだった。残った選択肢は中国語しかなかった。

 語学のクラスは登録者が少なく、カルチャースクールみたいな雰囲気でのんびりできるのがいいが、今年は20人ほどの授業を受ける。出自の関係で中国語を話せる人が二人いた。そのふたりが先生に指名されて教室のまえにたち、中国語で自己紹介をする。
 なにを言っているのかわからない。うねるような音の連続としか思えない。「三」だけ聞きとれた。ちなみにこの漢字は中国語でも「さん」と読む。しかもあとからわかったが「三」とはひとことも言ってなかったらしい。

 

 図書館で済ますべきことがあったが、ひとの目が怖くて電車に逃げた。
 留年したので、ほとんどの知り合いはキャンパスから消えている。服を笑ってきた人も、坊主が似合わないといってきた人も、プリントを前に回すときに肩をとんとんと叩いたらさっさっと払ってきた人も、この人と一生一緒にいたいなどと生まれて初めて思ったけど連絡先知らなくて二度と会えなかった人も、全員消えた。あのひとたちの全員が働き、結婚したり子供を生んだりというおりおりをこれからこなしてゆき、良い死をめざして懸命に生きていく。



 ひとこと挨拶だけして、所属していたボランティア団体から名前を抜いた。
 その方面の縁で知りあった宮本くんを出会い系アプリで見つけたのはその直後だった。ここでつながってもいい関係ではないので踏みとどまろうとはしたが、どうにも気持ちがおさまらず、メッセージを送ってしまった。
 幾通かやりとりを繰りかえした結果、最終的に「好きな人に近づけるような見た目になれるようにすれば、もっと楽しめますよ」とアドバイスをされた。

 ここ数日、彼のそのことばに呪われている。

 なにかつめたいものを感じて、ぼくはすぐに言いかえした。
「へえ、宮本くんは近づけるような見た目にしてるんだ」
宮本くんはあかるくて、屈託のない人なので、たぶん言葉通りに受けとってくれたのだとおもう。
「はい、努力はしてます。この世界、似た者同士で一緒にいることが多いんですよ」
そんなことは教えてもらわなくてもわかってる、と口が勝手につぶやいていたけど、2ちゃんねるとかで見たことをこの世の一般常識に敷衍してものごとをつらまえたつもりになっているくせになにが「わかってる」なのかと、もうひとりのほうの口がののしる。
 彼のまるくふわふわした相貌やそれにとりあわせて身に着けているのであろういろいろなスポーツ用品を思いかえして、おそろしくて鳥肌がたった。女の子たちがみんな宮本くんのことをかわいいとこっそり話していたので、僕はあとでそれを紙に書いて本人に教えてあげるつもりだった。結局教えないままだったのを思いだした。

 人に求められるものを探さずに生きるのはとても楽。



 電車を降りて、視線を避けるということだけを目的にそのばしのぎに歩いた。昼飯を食べていなくておなかがすいていたが、ガラス張りの店内にスーツの客しかいないのが怖くて、どこにも入れない。
 気が付けば西へ西へ歩いていた。

 文学の講義で習ったが、西という方角は死を象徴している。なんか根拠は忘れた。聖書がどうとか言ってた。

 ほんとうに住宅しかない住宅地の西の突きあたりは堤防である。5メートルほどの堤防を見上げると、むこうからさす太陽があまりに強いので、青空の断面はすずしく白んでいる。おごそかなほど等しい間隔で植えられた細く低い立木が、やなぎの木に似た枝葉を風にゆらしている。宗教的なひかりをともない、榊めいている。
 川沿いを歩いたり、歌をうたったりして3時間ほどすごした。


 青木さんからの誘いを連続で断った。先約があった。
「わかりました。なんどもさそってすみません」
とひんやりした返信があった。生きていてほしい人ほど死にそうなはかなさがあったりする。
 川のむこうには東京が見える。とほうもなくとおい。
 スーツを着た人たちを載せて、総武線は鉄橋をいききする。





 3年ぶりに焼肉を食べた。一緒に行った上柳さんとは話が合わない。
 アニメの話、ディズニーの話、僕の知らない友達の話。そのあいまに、僕はたまになにか思いだしたことをはさむ。趣味も感覚も合わない。それを聞く彼もさもつまらなさそうな反応をして話題を転換する。
 だんだんあいてのこともじぶんのことも、いま生きるすべてがむかついてきて、こちらのあいづちもどんどんてきとうになっていった。気持ちにまかせて白飯だけを大量に食べてしまい、食べ放題なのに最後のほうで肉が入らなくなった。「焼肉の食べかたへたくそでしょ」と言われた。
 それからベローチェに行った。やはりスーツを着た人しかいない。

 犬はほんとうは人間の言葉をあまりよく理解できていないが、彼らから言葉が返ってくることがないので、なにを考えているかわからないぶん、自分のいいように解釈できる。だから飼い主は人間よりも犬のほうが心を知ってくれていると錯覚する。

 上柳さんは飼い犬に語りかけるときのように、僕には意味のわからない、知ってもどうしようもない話を続ける。ぼくが話しているときも、まったく話が通じている気がしない。この人だけではない。言葉が通じないのに、通じるふりをしている。聞こえているのに聞こえてないふりをする、聞こえてないのに聞こえているふりをする。
 そう思うと涙がとまらなくなってしまった。こんな時間とコーヒーのために210円もとられるなんて、この世はおかしい。
「え、どうしたの? 急に? 泣いてるの?」
そういったきり、上柳さんはだまった。上柳さんは体がでかいし服も突飛で目立つ。ふと、また奥歯のあたりによみがえってきた宮本くんの呪いを嚙みつぶす。静かな店内で会話をしているのは僕たちだけだった。
「もう帰ろう」と提案した。なんどもききかえした言葉がようやく聞こえたというような顔で、上柳さんは立ちあがった。