試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

むきふむき

 西田くんとは、ボランティア団体の初回の集まりではじめて会った。そのとき彼は僕のひとつしたの一年生だった。ガジェットに強くて、機械のことは彼にきけばだいたい解決するような、頼れる人だった。

 サークルにも入っていなかった私は、学生の集団にまじるのははじめてで、おどおどしていたのに、メンバーは挙動不審のぼくを見ても笑ったり気味悪がったりすることなく、優しくしてくれた。特に上級生はいろいろなことを経験して、人間的に完成しているかんじがした。
 そして西田くんは第一回の会議の時点で、完全に上級生を抜いてトップの存在感をただよわせていた。真面目そうな、清潔感のある、寺の息子だった。言うことは常に的を射ており、それとない忖度と気遣いのできる人だった。目上の人と話すときにはその存在感をすっと消すのだ……。


 夏が近づくと、いろいろな行事のために髪を剃ったり、たまに「きょうは卒塔婆を書くので、これで失礼します」というようなことがあったりする。
 彼の夢は僧侶になることだった。
 それって夢なのだろうか。よほど直接聞こうかとも思うほど不思議だったのだが、よく考えると、家が寺だからといってみんなが僧侶になりたいわけではないし、その点彼は自らすすんで帰依を志しているのだから、たしかにそれが夢なのだ。
 成績優秀者として、なにかしら名前を見かけることもあった。
 それでも、ひとと話すときにはしなやかな慇懃さがあって、見くだしたり尊大であったりすることはすこしもなかった。見えないところに鋭い爪を持っていることを、この鷹は確固たる自信にして、高いところからおだやかにすべてをながめているようだった。




 一年が経ち、活動にも慣れたころの授業終わり、構内に献血カーが来ているのを見て、西田くんがにわかにはしゃいだことがあった。ほんとうにとつぜん、はしゃぎはじめた。
 西田くんとぼくと、その少しうしろを宮本くんとで歩いていた。
「3人で行ったら、ジュース何本もらえるかなあ」
ふだん、こんなどうでもいいことをいう人じゃないので、ものすごくおどろいた。
 西田くんが献血カーのほうを振りむいて、しばらくうっとりしていたので、ひとの視線を追うことで相手の気持ちを汲もうとする習慣のある宮本くんもじっと、献血カーのほうをながめていた。
「え? ひとりで行ったら一本なのだから、3人で行ったら三本なのではないの?」
「いや、友達をさそいあわせて行くと多くもらえるかもしれないらしいですよ」
へえ、それは面白い。まあ三本しかもらえないと思いますけど。
「じゃあ、三人で行こうか、献血
そう誘ってみたら、彼はもやっと、眉をひそめて妙なものを味わう表情を見せた。こんな顔をするのもはじめてだった。
「行ったことありますか?」
「え、ないです」
「あっ……ということは、もしかして」なんだか嬉しそう。「と、いうことは」
「え? なあに」
「と、いうことは」
「ん?」
「ということはー」
ということは、と何度か繰りかえしたまま、僕たちは事務所へ帰り、報告書に署名したり、職員にきょうのできごとを相談したりした。
「貧血ですか」
事務室を出ると同時に西田くんが言いはなった。それが話の続きだということに気づくまでにしばらくかかった。
「ああ、献血の話」
「貧血なんですね?」
「どうして? べつに、ちがいますけど」
彼はそれを聞くと、すこし肩を落として「ああ」とためいきをついた。
「ぼく、生まれつき貧血なんですよ」
「ああ……それは、献血は向いてないですね」
このひとは、貧血でない人は全員献血をしていると思っているのだ、じぶんが貧血だから。生まれつきの向き不向きが、西田くんという完璧な人間にも、ある。

 他者を手助けするボランティアなので、そこに応募してくる人はしぜん、自らの生活に余裕があり、余力を人助けに向けられるような、恵まれていて優しい人々ということになるはずだった。いま思えば、自分のこともよく管理できない人間は、他人の心配などしている場合ではなかったのだ。
 2年の秋、ささいな鬱トリガーがたてつづいて降りかかってきたとき、もはや大学の機能そのものには通学するモチベーションを求められなくなって、その年度で退学してしまって、働きはじめたほうがいいような気がしていた。友人にはフリーターがたくさんいた。
 そういう時期にたまたま募集の掲示をみつけた。授業の補助のボランティアだった。じぶんのためになることはなにひとつないけど、ひとのためになら学校にちゃんと来られるかもしれないと思い、志願した。
 


 血が足りない人は、他人の血の心配などしてはいられない。
「だから献血したことはないんですけど…」
「じゃあ、やってみようよ。きっと大丈夫じゃない?」
「いや、けっこう抜かれるんですよ、あれ。知ってるんですか?」
「知ってないです」
なにしろ僕もいちども献血したことないのだから。
「だから怖いんです」真剣に怯えている顔だった。一生献血をできない体に生まれたことを悔やんでいるかのような。「あんなに抜かれたら、倒れるかもしれない」
「そっか。注射というか、採血そのものが怖いからだめという人もいますよね」
「あ、注射はへいきです」
「お、そうですか」
「予防接種とかは大好きなんですけど、採血はやっぱり、こわい」

「予防接種大好きなんだ」

「大好きというか、まあ、あれなんですけれども」

「はい」

「血を抜くのは、だめですね」

「そうですか」

「だめです」