試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

地獄

 
 楽しいことがあったって、恋をしてたって、死にたいときは死にたいよ。俺なんてこのあいだも、ドアノブに長いタオルをかけて、U字型にしてそこに首をかけた。もういいかなって思って。でもドアが、ノブじゃなくてこう、したにがちゃんてなるやつだったから、死ねなかった。
 青木さんの巨体が床に転がりおちる。
 聞きながら、『太陽がいっぱい』のなかの、バスケットが放りだされて、七面鳥のようなまるごとの白い鶏肉がしっとりと床を跳ねまわるシーンを思いうかべていた。赤い、トマトのような野菜も転がる。

 守りたいとかいちども思ったことない。


 
 大村くんは、毎週日曜、お父さんのお墓の世話をするそうだ。
 こんなことを話すのは先輩だけですよ。ほんとうは死にたいです。でも、死ぬとなんか、いわれるじゃないですか、不名誉というか。世の中の目があるので。世間体わるいので。だから、誰かを守って死にたい。積極的に自殺したりはしないけど、だれかのために死ぬならまあいいかな。
 だれかってだれ。だれですか。
 だれかが死にそうなとき身代わりになれるだろうか、ぼくは。
 だれかを助けるための、その愛のほんのすこしだけ、まるいゆびさきのひとつまみをぼくに与えてくれさえいたなら、ぼくは一生を満足して死ねたのに。おまえのせいで永遠に死ねない気がする。別に責めてるわけではないが。



 富山さんが、どういう話の流れか、「死にたいと思ったことがあるひと挙手」といった。小学一年生のときだった。
 ぼくは手を挙げて、適当なことを言った。
「ボウルに水を張って、そこに顔をつけて死のうとしたんだけど、苦しいからできなかった」
これは給食の班のみんなの笑いを取った。富山さんがいちばん笑ってくれた。あのころは死にたい人を見てもだれもいやなかおをしなかった。
 おとなになると、すくなからずみんな死にたいので、死にたいという人の軽々しさに辟易したり、自分の死にたさから目をそらすために他人の死にたさを迂回したりするようになる。
 それは生き物として正しい反応だと思う。
 ほんとうのほんとうはせかいでいちばんじぶんが好きだからあなたもわたしも。



 
 よく見る夢があって、病院なんだけど、病院みたいな大きい建物なんだけど、そこに入って何階かまで上がっていくと、なんかお母さんがいて、ロープを渡されるんだけど、窓のうえの外壁のところに棒があるからそこにこのロープをU字型に垂らして、そこにぶらさがりなさいっていわれるのね。それでぶらさがると、ゆらゆらするんだけど、ロープもぼろぼろだから、あ、このままじゃ落ちると思って、すごい怖くて、目がさめる。
 たしかに、兄はよくうなされている。
 
 ある朝、二階にある兄と一緒の寝室で寝ていたぼくを起こして、階段を降りようとしたとき、ぼくは足を滑らせていちばんうえからしたまでころがりおちた。
 手のなかに持っていた子供用の小さな目覚まし時計が飛んでいく。おにいちゃんがさかさまに見える。てんじょうがしろい。窓から差す朝日が目にささる。全身をぶたれまくったような痛みがある。
 突き当りの壁に下半身をあずけるようなかたちで停止した。首が無理な形で曲がっている。近所のものが大勢かけつけるほどの音がしたらしい。頸部のすり傷だけですんだのが不思議だった。
 おにいちゃん、ぼくあのとき、死ぬはずだったとおもわない? ほんとうはあのとき、首を折って死ぬはずだった。死んでないのが不思議。

 ぼくの目が生まれつき悪いことがわかって、母は毎日泣いていた。子どものときからめがねをかけさせるのが屈辱だったらしい。
 めがねを買うためにお金を使ったので、兄の新しい学生服は買えなかった。就職面接へは、穴の空いた制服のまま向かった。
 悪い目じゃなにも見えない。生きている意味が見えない。
 めがねをはずして、部屋を暗くして、なにも見えない状態でしか、やさしくしてもらえないなんて。
 なんの意味もない。
 だれも意味なんて求めていないだなんて嘘だ。孤独を共有するための装置を用いることのできる、たぶん唯一のいきもの、人間。
 みんなを救うことのできるだれかがもらうはずだった命をぼくがもらってしまい、生まれた。




 猫を飼っている家庭に生まれたこどもは将来うつ病になるリスクがそうでないひとにくらべて高いというようなことを書いたネット記事を読んだ。まゆつばものだが、統計がそういうなら相関はたしかにあるのかもしれない。猫の人気がでるほどうつが増えたりしたら、すこしこわい。
 
 むかしの人が言いつたえてきた非科学的なことがらが、現代ではより科学的に言いかえられていることがたまにある。
 猫もそのたぐいかもしれない。その近くにいる人が気鬱になることが多かったので、魔力があると思われたのかもしれない。
 
 車にひかれて中身のなくなった猫の死体を見た朝は、その夜まで暗い気持ちを引きずりそうでおそろしかったが、すぐに忘れた。

 飼育委員のしごとでうさぎ小屋の掃除をしているとき、ピンクの肉の塊が二、三個ころがっているのが見えたが、それらが4匹いるうさぎのうちのどれかが産みおとした幼体だということに気がつくまでに数十秒かかった。4匹ともが小屋を走りまわり、その幼体を蹴飛ばしたり踏んづけたりするので、すでに原型をとどめないほどのうすももいろの肉塊となりはてていた。
 事務室の人に「うさぎが赤ちゃんを産んでしまったようなのですが」といいにゆくと、おとながやってきて、ビニール袋に死骸をいれて持ちさった。
 
 



 快速が新小岩駅を出ようとするとき、となりのつり革にぶらさがる西田くんがつぶやいた。
「ライトが青色なんですよ」
その言葉の意味がわかったのは、電車がスピードを出しきり、等速直線運動をはじめたあたりだった。
「ああ、抑止のために」
法事の手伝いのために剃りあげたばかりの坊主のもみあげやうなじをもう二度とみないように、ずっと暗い窓の外を見ていた。口のなかがさっき食べたカルビの味がする。西田くんに要りますかと差し出されたガムをもらわなかったのを後悔した。
 はい。でも、結構いい迷惑ですよね。本人はまあ、いいですけど、目撃した人は一生残るじゃないですか。破片が、飛んできたりしたら……まあ……そんなことをかんがえるほどの余裕もないから、死んじゃうのかな……まあ、大変なんでしょうね。

 ぼくが死んだら、西田くんどんな気持ち?
 すこしでもぼくの気持ちを想像してくれる?
 その声でお経を読んでくれる?
 もう聞こえないけど、たぶん。

 ただ声を聞きたい。変ないきもの、人間。






 けんめいにこすって洗っても、ずっとぬるぬるした感じがした。そのときにはわからなかったが、それは佐藤さんが中に流しいれた潤滑剤があとになって漏れだしてくるから、延々ぬめぬめしているのだった。なまあたたかいシャワーの水が流れおちる肌のうえに手を、おたがいの存在を確かめるように置く儀式。人生を選びとる儀式の連続。将来を迫られる連続。そのさきにあるのがいま、ここ。
 死。
 どれだけの愛しさも死にたさも、個の意識は他人とは共有できないから、あなたにもわたしにも、永遠に理解されない絶対的に孤独な領域がある。孤独を共有するための間接的な装置も、もしそれらを組みたてる能力がぼくにあったとしても、誰にも受容されないのなら、もはや生きているとはいえない。
 閾値を越えた感情の奔流が神経を焼きちぎる。ぼくはここにいる、ここにいるとなんども、相手や自分を傷つける行為、生きるという死。かみさまはたしかにいる。

 


 偏頭痛のまえには必ず目が見えなくなる。芥川龍之介の『歯車』にも同じ症状が出てくる。日常の個々の要素が歯車のように緻密に関連しあって、増殖して、力を増幅しあって、視界を埋めていく。いきどまる。なすすべがない。

 溶けだした血が脳にしみて痛い。