試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

真保くん

 真保(しんぼ)くんと深原(ふかはら)くんが転校してきたのは小4か小5のころだった。


 このふたりは、思春期の萌芽をまえにして静まりかえっていた火薬庫に撃ちこまれた銃弾であった。とくに真保くんは私ひとりの人間形成に少なからずひずみを与えるほどの熱い一撃だった。




 真保くんはだれよりも自分のことが好きだった。これは実は難しいことで、彼よりも自己愛の強い人はほかに見たことがないといえるほどの確固としたナルシズムだった。また、自信のある態度が目をひき、一周回って独特の魅力となっている点も、ほかにないと思われる彼のタレントである。

 ぼく、友達は女の子しかいなかったのだけれど、その女の子たちが全員真保くんを好きになってしまったので、いけすかない男だったが、僕も自然とこの余所者と懇意になりかけた。がっちりしていて、色白で眼鏡をかけた端正な顔だちの、その歳のうちからそこはかとなく男を感じさせる風貌をしていた。

 ちょっと意味がわからないと思うが、僕は子供のころは仲のいい人とは抱き合いながら会話をしていた。(いまはそんなことは絶対にしたくない)。彼とも廊下で抱擁しながらドレミの歌をうたうくらいまで仲が深まった時期もあった。
 しかし、基本的に自分自身のことを好きすぎる人には言葉が通じない気がしたので、こころうちでは嫌っていた。




 彼の魅力は生まれつきのものなので、打算的ではないといえばきこえがいいが、悪く言えば感性や柔軟性がなく、底があさく、ゆかしさがなかった。

自分のクラスでの立ち位置や人間関係上の立ちまわりを常に冷静に選びとりながらムードメーカーの地位を築いていくことになる出世株の深原くんとは異なり、自己演出がつたなく、おろかだった(と、私は思う)。

 端的にいうと、良い物を持っているのに見せ方がへたなせいで軽薄な人間に見えてしまうのだ。自分の強みへの自負が見え見えでさりげなさがなかった。そういうところを工夫せずにいるところも見ていていらだたしかった。

 

 抽象的な話はここまでにして、彼を象徴する大事件をここに記そうと思う。


 放課後の校庭で、真保からすこし歩こうとさそわれ、連れだって、誰もいないグラウンドのまんなかあたりへゆらゆら進んでいった。
「好きなひととかいないの」
となりをあるく真保がすました顔でたずねてきた。このとしごろの子どもたちはよくもわからないままこのようなことばかり話していた。
「うん、いるよ」
「だれ?」
「真保はいるの? 好きなひと」
「いる」
「だれ?」
「富山」
富山さんのことはぼくも好きだった、なぜなら美人で家がお金持ちだったから。目の前の軟派男と好みが近いことで自分の審美眼の幼稚さが証明されたような気がして恥じいった。
 あと、真保は転校してきたので知らないかもしれないが、ぼくは一年生の最初に富山さんと席がとなりだった。喧嘩したり、泣かされたり、ズボンを脱がされたり、ゲロを見られたり、ちんこがついているとはどんな感じなのか、ついていないとはどんな感じなのか、自殺をするならどんな方法が良いかについて語り合ったり、している。いまさら出てきたわけのわならない男に、ぼくの大好きな富山さんをとられるわけにはいかないんだ。
「ぼくも富山さんが好き」
真保の目をまっすぐ見て言った。
「へえ」真保はしばらくぼくの顔を見つめていたが、そこにある敵意を読み取ってか、だんだん表情をつめたくしていって、それから一度鼻で笑った。「その顔で?」
え? と聞き返しそうになるのをこらえて、ぼくはなおまっすぐ真保の顔を見た。
「うん。そうだよ」
「無理だよ。整形したら?」


頭のなかに生まれつき埋めこまれていた死の装置がぐつぐつ音をたてて起動しはじめ、相手を殺すか自分を殺すか、どちらにしてもいまここにひとつの死をもたらそうと、熱をもった体の中枢に訴えかけてくるのを感じた。


 たしかに、真保はきれいな顔をしていた。鏡に映った顔がこれだったらぼくも少しは傲慢になるかもしれない。美しい富山さんには、どんなに大切に思っていても、手などすこしも触れたくはなかった。汚したくなかったのだ。

 この目の前の男には私の汚物を食わせたいと思った。いまでも、ぼくを一生ブスの檻に閉じ込めてしまったあいつにむかって、すべての排泄はなされている。




 それまでは、劣等生ではあったけれども、むくわれなさみたいなものはまったく感じなかった。別にだれのことを嫉妬したこともなかった。
 真保くんの登場によってはじめて、生得的優位性のみで世の中を渡ろうとする人間がいることを知り、そして気づかぬうちにそれをねたみ、みにくいこころになってしまった。