親しい友達? それ以外の友達は親しくない友達なのかしら。それともすべての友達を親しい友達に認定してるのかしら。あなたは親しい友達だからね、そういう本来段階的な観念がみどり色の円でふちどられたアイコンだけでデジタルに伝達されるのは恐ろしい。
親しかった友達? もしも中学生のころに親しいか親しくないかが可視化される文化を知っていたら、もっとうまくやれたかしら。
床と癒着した敷き布団のうえで毛布とねちゃねちゃになりながら携帯だけは手放さずに握って、ともだちコレクションをひととおり思い浮かべた。今宵ネットを駆使したひとりあいつ今何してる?を開催する。
この自分の醜悪をはたと客観してはその折々で底辺の生活に震えた。これは虫である。グレゴール・ザムザ。私達のような種類の生き物には思考することや主張を持つことは許されない。生まれたときはみんな虫みたいだがだんだん人間らしくなっていくものだというのにああぼくはずっと一生虫生なんだ。他人の生活やエロ動画の発するブルーライトを照射された両目からはひりひりと、常に粘液が流れていますね。美しいものを美しいと言える人たちの生活が憎かった、憎かった。
感情のプロセスは故障していますよ。レジに見た目のいい男性客が来ただけで死ぬほど悲しかったり、彼氏のストレスが高まっているときにみずから髪の毛を抜く癖が誇張ではなく殺したいほど腹立たしかったりする。
ぼくの話を全く聞いてくれないのも無理だった。友達を選り好みしすぎて話を聞いてくれる、わかってくれる、そしてこちらも聞いてあげられる、わかった気持ちになれる、そういう人としか交友関係を作ってこなかったので、自分の話を聞いてすらくれない人とは恋愛関係どころかいかなる関係をも持っている意味がわからなくなってしまった。最近そう、そういえばそうでした、なにもわからなくなったんだったわ、恋人(?)との生活について。
おれ最初からこの人のこと好きじゃなかったわな。これは今も当初も本当に同じように感じていたことなのだ。強がっているとか、自分をちゃんと分析できている人間気取りとかでもなく、ただほんとうに好きじゃなかった。ではなぜ付き合いはじめたのかというと、好かれていたからだ。好き好き大好き一生ずっと一緒にいようねずっとこづくりして過ごそうね、そんなことをいままで言われたことがなかったのでそーなんだ!(創刊号は100円)と思って、そういう人もいるもんなんだと思って、愚直に承諾したのである。さて、それではいままでの一年半の恋愛ごっこのなかで一度でも満ち足りたことはあったか?(いや、ない。)お互いに大馬鹿者である。いや、私のほうがよりおろかかも。稚拙じゃよ。
それは、かわいいタイプの稚拙ではない。だって私たちもう高校生じゃないんだよしかもホモだし。もとよりなにをしたって恋愛においてはかわいくなんてないうえにじじいだ。じじいでしょうが! 糞馬鹿底辺ブス前立腺性感帯じじいのLOVE REVOLUTION 21 wow wow はさすがに誰にも見せられない。
シンクに食器を投げた。言葉が受理されないのであれば物理で殴るしかない。ああ、お母さんに似てるな。よくある毒親漫画みたい。私、お母さんと一緒だ。
物を投げた日、彼氏の髪の毛むしり行為はよりアグレッシブになった。深夜、わっしゃわっしゃという音で目が覚めたので見てみると、目を閉じたまま毛髪を鷲掴みにしては引き抜くという夢遊病を発症していた彼。わたしのせいで、ごめんね。などとは少しも思わなかった。ああ、精神のささいなよじれが身体的な癖に出てしまう人苦手、と思ってまた寝た。
母は毒親かもしれないけど私は母のことが好きです。
コロナ騒ぎのなか二週間に一回くらい電話をしている。毎回「死んでない?」と確認する。ほんとうにこんなことで死んでほしくないからだ。そして母は毎回「ありがとうね」という。虫の私に。
兄は家を買った。家を持たない両親だったことを鑑みると、一軒家を買うという行為は親子関係の結論としての意味をはらんでいるであろうととらえざるを得ない。兄は落とし前をつけたのだ。「いつでも来ていいよ」と言って実家に合鍵をおいていったという。父は「いい息子だ」と言って泣いて喜んだが、しかし母は。
わたしはあんたが家を出てからどうでもよくなっちゃった。もう死ぬだけだもの。そうでしょう。子供がいたから引っ越したいと思ったこともあったけど、こんな老人ふたりで息子の家に越してどうなるの? なにもないでしょう。若い人と暮らせると思う? お父さんはなにもわたしの気持ちわかってない。新しい家の件で私たち夫婦はより一層バラバラになってしまった……。
まったく動物らしい親なのだ。早く死にたいとよく言う母だが、子供のことは自分よりもかわいがっていた。貧しく無趣味で、学がなく、身づくろいもうまくできず、世の中のことに興味がなく、死にたいが、子供を育てているときだけはまっとうに幸せだったみたい。
親と話しているときにしか孤独を癒せなくなっている。いつも誰かの餌付けを待っている。ぼくは幼虫に逆戻りしている。
これから接客練習を始めます。
夕礼を始めようとしたとき、とおりかかった青果主任が「おっ」と遠野さんに声をかけた。
「髪切ったね。さっぱりしたじゃん」
さっぱりしたじゃん、というのは男が髪を切ったときにいうことじゃないだろうか。遠野さんはボウイッシュだけど女子大生なので、もうちょっとなにかほかの言い方がありそうだ。
「だめじゃん、おまえ」ぼくのことを指さして主任は、声だけ残して歩き去っていく。「似合ってるよって言ってあげなきゃ」
みんなわははと笑った。ぼくも笑った。わはは、あ、お客様をお迎えするときは、いらっしゃいませ。でも内心、感服していた、これって主任だから許されるんだよなあ。お客様をお待たせするときは、少々お待ちくださいませ。女性のしたたかさを恐ろしく感じることと同じくらい、こういうときの男性のさわやかな技巧に驚くことがある。お客様にお願いをするときは、おそれいります。
青果を担当している遠野さんの話によると、主任は髪を切ると必ず最初に気づいてくれるのだという。
「私ショートだからひとから見たらそんなに変わらないと思うんですけど」
「主任優しいね」
「優しいですね」
「これだからイケメンは」
「だれかも主任のことイケメンって言ってましたよね、だれだっけ」
「上柳では?」
ぼくは言ってからすぐにうかつだったと後悔した。上柳は若細専汚濁デブなのに、がっちりおじさんの青果主任やむっちり眼鏡坊主のエリアトレーナーの関さんのことをよくイケメンと評していて、その矛盾とぼくの好みを読んでくる感じがとてもキモくてムカつくのだが、そんな事情を知ってるのぼくだけだった。
「上柳さんでしたっけ。まあ言われてみれば確かにイケメンかも。いいお父さんになりそう」
なにも考えていないそぶりのまま出てくるその表現にぞっとした。いいお父さんになりそう。女の人には主任はそういうふうに見えてるんだ。ぼくはいやらしい目でしか見たことがなかった。否、良い父になるであろうという見立てもそういうことの言い換え語なのかもしれない。
二年前にバイトを始めたとき、なにか指示をされたのだが、単語の意味がわからなくてなにもできずにバックヤードをうろつくぼくに気づいて、近くにいたおじさんが声をかけてくれた。
「最初はわからなかったらすぐに聞き返してメモとるんだよ。ね」
そのおじさんが美しくて、ぼくは恥ずかしくてはいと返事をするのが精いっぱいだった。短く刈った髪は面相筆の先で一本一本書いたみたいに黒と白の混ざった精密な銀色をしていて、目は鋭いのにやさしかった。あとで上柳から、青果主任イケメンだよねあれで50近いんだよと聞いたときただためいきをついた。この世は不公平ですね時間とそれに伴う老いだけが平等にやってくるなどだれがついた嘘だ。
「書いて」
このあいだ、ふだんあんまり話さない青果のパートさんに廊下で呼びとめられ、言われた。ぼくはメモ帳とボールペンを握らされたまま。
「なんですかなにを? 怖い」
「なんでも。あいうえおって書いて」ぼくはあいうえおと書いた。パートのおばさんはそれをじっと見ると、ああ、確かにうまいねえと言った。「主任がね、あなたの字がすごく好きなんだって」
「そうなんですか? あはは」
あはは。
中学生のころからよく文字を褒められた。周りの大人は私の字や書くものを褒める習性があったので多感な時期の自己肯定感や承認欲求が筆記に全振りされたのだ。しかしながら、これは正しい肯定感の得方ではない。字自体に価値があるとしたらそれは芸術として学んだ書道の場合だ。私のは勉強した文字じゃない。
それから成長するにつれて自然と明らかになっていくのだが、内容がなければいくらよい字を書いたって意味がない。英語の発音がいくら上手にできても、喋れなければ意味がないのと同じことである。それに気づいたのはスピーチ大会後に教頭から、発音の癖からしてアメリカで生活経験があるのを隠して不正に出場しているのであろうなどと陰口を叩かれたときのことである。
私スピーチ大会がトラウマ過ぎてこの話ばっかりしてる。このエピソードのいやなところはほんとうに傷ついたのだが間接自慢みたいに聞こえてしまうところだ。でも本当に精神が悪化した、スピーチやってる人は全員容姿がよくて、先生たちは容姿がいい人に期待していた。私はなにしに来たのみたいな扱われ方をしたし仮にうまくできることがあっても不正だと言われる。
一生懸命練習して形だけそうなったとしても、ひとが実際に見ているのは実力と容姿なのだ。私が陰湿でなよなよした吹奏楽部員だったので、いくら字がうまくてもいくら発音がうまくても、内容までは正しく伝わらない。
そのため主任に字を褒められたときあのときのいろいろな失望を思い出してかなしかった。
ただその日、いつも「じゃあな」と言って退勤してゆく主任が、駐車場へと続く搬入口のシャッターのしたでぼくを振り返って「おれおまえの書く字好きなんだ。すごく好き。大好き」とまじめな顔でゆっくりと教えてくれたときえ~ふつうにプロポーズじゃんっておもったよね。
あいつ今何してる?
大学時代の写真が手に入っただけだった。
どこかの大学で英語の非常勤をやっているらしい。
本人に心変わりがなければ今は僧侶になっている。彼の夢は僧侶になることだったし、しかも僧侶になりたくなくてもどうせ僧侶になる星のもとに生まれた子である。私はこの僧侶のLINEを持っているので、いざというときには連絡を取ってすぐに弔ってもらうことができる。
・古橋
普通のサッカー部員だったのに三年になったころから私に話しかけたり、勉強を頑張りはじめたりとおかしくなったせいで友人が減る。体育大学に進んだあと、なんかバックパッカーみたいなことを一通りし、高校の講演会に呼ばれたり、大学の客員研究員になったりしたらしい。
俺はみんなと同じなのは没個性で生産性がなくていやだ。放課後、教室に居残って二人で勉強しているときに古橋が言ったことだったが、当時の私は彼の心算がよくわからなかったので教室にひとり残して家に帰った。
承認欲求の満たし方が正しかった。美人だったからかもしれない。黙々と勉強し有名な私大を出たあとは会社員をやっているようだ。
音楽短大に進み、今はいろいろなところで講師などをしているらしい。
卒業文集に私のことを名指しして「帰り道〇〇くんと心について話し合ったときに心理学への興味が深まり勉強したいと思ったので、そういう勉強のできる高校に進むことにしたぞ」と書いていた。彼女は一時期この世界が現実であるという証拠はどこにもないことに悩んで夜泣いていた。
大学では心理学を学び、無事に企業の心理職に就いたようである。催眠術をやりたいと言っていたが習得できたのだろうか。
サッカー部の子。小学生の頃席が近くなった際、彼の漫画を見てぼくも真似して一緒に書いたりしていたらなんかちょっと仲良くなった。修学旅行の宿で同じ部屋になったときは背中にアトピーの薬を塗ってあげた。「もっとすり込め!」と言われた。
高校まで同じ学校だったが住む水が違うので疎遠となる。大学入学からしばらくして彼が音楽活動をしているらしいと聞いたとき驚いた。地元でたまに路上ライブをやっているところを見かけたこともある。
YouTubeには彼がボーカルをやっているバンドの曲があげられている。いい音ですねと思ってよく調べてみたらもう解散していた。「解散の理由」というタイトルのブログ記事にはバンドマンがよく感じがちなささくれが丁寧に記されていた。
リニューアル🍣
すごくかっこよくてやさしくて、でも奥さんいるんだよなあ。かっこいいからいるのか。
親しい友達に共有された、スーツ姿の男性の首から下の写真、その人へのおもい。その日の大花さんは機嫌が悪かった。
「少し変なことを聞いてもいいですか?」
「なんですか?」
「パパ活ってどう思いますか?」
「個人の自由だと思いますよ。犯罪ではないし、だれにも迷惑はかけないのだから」
「そうですよね。変なこと聞いてすみませんでした」
今月、寿司コーナーを拡げるということで当店では上柳と藤堂さんが寿司修行に行くことになりました。それに伴って私の仕事が人知れずふたり分になったのですが、ただひたすらストレスストレス、わりと毎日壁を殴りながら過ごした1ヶ月でした、具体的に書きたいけどそれただの愚痴じゃんやめな?
あんた気持ちいい字を書くからね。字を褒められるっていうのはいいことじゃないの。それだけで認められるって得だからね。印象がいいんだから。あんたの書いたのとってあってたまにお父さんとかトモキとかに見せてるんだよ。自慢してるの「ほらこの字」って言って。
私毎日なにしてるんだろう。
リニューアルオープン後、藤堂さんは青果スタッフから鮮魚プロデュースという強そうな肩書きに変わった。シフト帯もモーニングに変更。時給も上がった。それは藤堂さんが決めたことじゃなくて店長が勝手に決めたのだが、あんなにやさしかった青果主任も人手が足りなくなるので、藤堂さんに冷たくなった。
今後ぼくが青果を担当することがあるので藤堂さんにならった。教えるのが好きだという藤堂さんに、そういう職についたらいいのではときいてみたら、自転車で通えるところならいいよとのことだった。ぼくはパプリカのラップをうまくできるようになった。その次の日から藤堂さんは寿司の部屋にこもってもくもくと職人をこなしはじめた。客と接するのはきらいだと言っていたのでおあつらえむきかもね。
オープン直後なので、他店の偉い社員が来て五、六人で固まって、うろうろしていた。たまによく聞く魚屋さんの声で「らっしゃーせー」というのが聞こえた。
人手が足りないせいで走りまわりながら、壁を殴りながら、ぼくは寿司の値引きをした。藤堂さんの作った寿司を僕が値引いている。なるべく高く売りたいなあと思ってねばるけど元売価があまりにもぼったくりなので半額にしてやっと売れるか売れないかのレベルだった。社員たちは少ない集客を見て「なんかいやな予感がするねえ」などと言っていた。このリニューアルがコケたらもうこの店舗はおわりかしら。
青果室はいつも涼しいにおいがする。野菜の皮が発する青いにおいだ。
「いま何歳なの」
机に座っていた主任が振り返って言った。優しい声だったので、一体お前はいまいくつだと思ってるんだと責めるつもりではなさそう。むしろ愛しいものを見つめるような目がこちらに向けられていて、むずがゆかった。
「もうすぐ25になります」
「うん、そうか」そしてにっこり笑った。「息子のひとつうえだ」
息子のひとつうえだ。
なんて返すのが正解だったのだろう。ぼくは打たれてなにも言えなくなっていた。息子のひとつ上か。そうでしたね。そうでした。