試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

¿fly?

 音楽の人たちとともに演奏会をしたくても近頃毒の空気が怖くてなにもできないから、配信をすることになった。

 創るシガさん、歌うメリさん、竪琴はマナさん、わたしは見ていただけだったのだけどこれがわたしの自己紹介になりそう。

 夏は急ぐ虫の季節である。春がとっくに終わった、時間は湿って停滞する。関係のない顔をして増殖している人間もやがておわりのころにはああ、虫だったと自覚する。わたしは虫にすぎなかった。この歌は背中を押している。

 わたし、球状に丸め固めた気持ちをビルの屋上から投げたことがあります。みなさんにもあるでしょうか。丸みが手から離れた瞬間、時間はふたつに割れる。

 ひとつの時間では気持ちのたまは遠く遠く声のように飛び、あるいは翼のないぼくたちの代用としての電波(つまり光)のように飛び、宛先に正しく届く。しあわせな気持ちになり、一部始終を見ていなかったひとたちに自慢して歩きたくなる。愛ともいう。

 もうひとつの時間では気持ちのたまは重力にしたがって垂直に落下し、アスファルトでこなごなに壊れる。さいあくな気持ちになり、もう二度となにも成功しないだろうと思い、それは自分のせいだからいなくなったほうがましだとおもう。でもそれが生きるということ。

 そして結果がどちらにせよ決まった瞬間、またもとのわたしに戻り、時間は一本の線を描きはじめる。同時には成立しない。これが気持ちのたまではなく、人間の体だとしたら?

「気持ちのたまは何度でも作れるから、体とは違うよ」

そう思うでしょうか。いいえ。

 たまにするために具現したぶんの気持ちは二度と心に湧いてきません。涸れます。そういう覚悟がないと気持ちをたまにすることなどできません。あなたが無下にみてみぬふりをした叫びたちは、もう二度とこの世には生まれません。かわいそうに。この時代、そのひととあなたのあいだだけに唯一生まれる気持ちのたまなのです。かわいそうに。

 逆に、体はかなりいくつもいくつも、生まれているではないですか。あなただけが体ではありませんよ。ほかの体もすべて体ですから、あなたの体が垂直に落下したからといっておなじような体はたくさんあります。気持ちはひとりにひとつですが体は地球に何十億とあり未だに増え続けています。

「そもそも気持ちを具現化するなど不可能だよ、目に見えないんだもの」

目に見えないものだからこそ、失くしても外から見たらだれにもわからないからこそ、その代わり体には終わりがあるのではないでしょうか。それで一旦意識の終わりを表現している。気持ちを失くし続けていたら苦しすぎるから。

 あ……もちろん嘘すこし驚かせたかっただけの。

 私たちの意識は体だし、体が意識を作っている。あなたの体は個別の体だし、あなたの体がおわったらべつの体の意識がそれを感知して悲しむ。決して同じ体ではない。

 気持ちは何度でも湧いてくる。今日は竜を追えずに落ちていった気持ちも明日はきっと生きて羽ばたくたぶん。たぶんね。そのためにこういう歌です。

 聴いてみてください。