試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

硬貨や指輪

 白という色は相対だ。白に見えるが実際にはごく薄い青だったり黄だったりする。そういう意味での白いシャツに白いジャケット白いパンツ。姿見の前であんたにおめでとうと言う。あ、ミッドサマーみたい。東洋人なので全くミッドサマーにはならない。私もまた相対である。

 

 「ヒグチユウコさん、どこかで聞いたことあったなとおもって調べてみたら、ミッドサマーのポスターでしたね」

と、チーフに会ったら言おうと思った。しかしもしチーフがミッドサマーの内容を知らずに、ヒグチさんのファンだからといってうっかり見てショックを受けてしまったらいやだから、言わないことにした。

 この一か月は浅はかな煩悩にまみれていた。あんなに優しかったのに。結局かおかたちなのだろうか。なぜ私は一生ひとりなのに、同居人にはすぐに彼女ができるのか。そんなことより人生を見つめ直しなさいとかひとは言うが、ぼくより酷い溝に生きてるネズミにだって伴侶はいる。どんな人生を生きているかなんて、夜寂しいかどうかには全く関係がない。どうして体には穴がいくつも開いているのか。なんのためにこんなに寂しいのか。

「ねえ、私もそっちのほうだから、途中まで乗っていく?」

安田チーフが車の窓からそう声をかけてくれるのは三回目だったが、出納室で泣いているのを見られた手前、断った。

 運といえばすべて運だ。ぼくがこの顔で、この体で、この気持ちで生まれたのも運。このたぐいの運の悪さを持っている人は不条理を描いたホラー作品は見てはいけない。生活に結びつけてしまいただのホラーとして見れなくなるから。

 ある日、駅からバイト先まで歩いた道のどこかで知らぬ間に、鳥類の排泄物が左袖にべったりと。私はいつも働く服装のまま来て働いてそのまま帰るのだが、みんながそうしていない理由のひとつがわかった。備品の制服には青ストライプの半袖しかなく、コンビニ店員ぽい柄だがまあスーパーの店員だし大差ないわけです、白いのがよかったが、しかたなく着た。

「なんだかそれ着てると学生さんみたいだね」

安田チーフが笑うので鏡を見てみると、ただのフリーターおじさんだった。どうも近ごろ若いとか高校生みたいといわれると思ったら単純に私も、そういうお世辞をいわれるほどの老化現象と、生来の頼りなさとを兼ね備えてしまう年齢に差し掛かってきたということだ。

 安田チーフは、もともと数店舗のレジ業務を束ねるエリアマネジャーだったが、

「おたくで買い物するとどうしてこんなに小銭が汚いんだよう。きれいなのと交換してくれよう」 

ある日突然チーフに降格するような形で赴任してきた。そんなことは聞いたことがないと一時期騒然とした。男性客の手にのった小銭は見たところ問題のない小銭だ。

「自動釣銭機ですから、運なのです」

「いやだ。交換して」

試しに近くのレジから五円玉を出金してみせ、小銭というものは大体どれもこういう色をしているのだと、要するにそういうことを私は説いたが、理解は示されなかった。

 仕事にやりがいって感じる? チーフの言葉を思い出す。

「チーフ、硬貨って運ですよね」

「そうなんです、なにが出てくるかは出てきてからじゃないとわからないんですよ」

ちょうどチーフがカウンターの近くを通ったので相手をしてもらったが、それでも納得してもらえなかった。しかたなく同じ金額を出金し、大体同じ色の小銭を掴ませて、まあこんなものかと納得してもらった。入出金簿の理由の欄に「ヤバい」とだけ記入した。

 あたしは宝くじが当たったらすぐ辞める。転職するにしてもあたしの歳だともう正社員で採ってくれないし、どこも。

 

海月

 わたしには幸せな家庭は築けないもの。

 Y美の親しい友人に、最近子供が生まれた。会いに来るよう招かれているがY美は渋っていて、その理由としてそう言うのだが、論理が飛躍している。意味も気持ちもわかるが、あえて行間に余白を作って言外の意味を匂わすような書き方は、好きな服を着て歩くだけで楽しくなってしまうこの人の無邪気さとは似つかわしくなく、だからこそ本心なのかもしれなかった。

「変わらないでいてね」

居酒屋かなにかで、当時すでに成人していたY美が、まだ未成年だった私に言った言葉。私は海月先輩にこそそう思った。

 

 夏の太陽を四方から浴びてサンルームになってしまう、屋上の出入り口。我らが文芸部室である。長椅子と、どこから持ってきたのか箪笥や戸棚などが置かれていた。

 海月先輩とはたまに机を挟んで向かい合い、弁当を食べた。ぼくは教室に友達がいなかったから部室で食べていたが、海月先輩もなぜかたまに来ていた。そのときの先輩の、どこか斜め下方向を目だけでにらんでゆっくり咀嚼するへんな仕草は、いま、だれかと会食するときの私の癖になっている。それほどこの人は新しかった。

 担任の教師と高校生活についてのカウンセリングを行った際、その先生は海月先輩のクラスを担任したことがあったから、自然と話題にあがった。

「文芸部ってY美さんいますよね」

「いますね」

「すごく変な子だから気をつけてくださいね。体育のとき急にいなくなっちゃったことがあって、みんなで探したら文芸部室にいたのです」

明るい性格の先輩がそんなことをするのに少し驚き、また安心した。えっ、こんなにきゅうくつな学校だけど、高校生になったらそういうことをしてもいいんだ! 元気な人にもそうやって逃げたくなるときがあるんだ! ぼくはおかしくないんだ! 先輩が拳から壁に突進して開けてくれた穴から、校庭を吹く爽快な風が入ってきた。世界は広い。

 かわいらしくていつもにこにこしていて、友達もそれなりにいて、でもどこか陰があったり、ところどころで疎外感を感じていたりする。田舎の高校生にはない都会っぽさがある。女の子とばかり遊んでいたけど女の子の体に流れる血のことは当然知ることができない。そう自覚し始めて孤独だった僕にとって、海月先輩は女の子の象徴だった。

 ぼくが入学したときこの人は3年生だったので、高校ではすぐにお別れになった。再び連絡を取り合うようになるのは、よくは覚えていないがぼくが受験期かその終わりで、なぜかお互いにこのとき人生で一番病んでいた。まだ子供だったぼくは、このときのY美の感情の濁りを完全に吸ってしまって、苦しかった。

 高校卒業後の二年間でエステティシャンになるための技術を修めた彼女はその道で就職をするが、職場の上司からの不当な扱いをきっかけに精神のバランスを崩す。このときはじめて、Y美は拳で壁を破ってあっけらかんとしている女の子などではないし、悪く考えるととことん落ちていくタイプの、ふつうの人だったのだと知る。

 希死念慮離人様症状について聞かされたり、完全自殺マニュアルを貸されたりした。そのあたりのことはあまり覚えていない。ぼくも毎晩なるべく早く目を閉じてすごしていた。早く過ぎろ、早く過ぎろ、ただ海をただよう白い光を空想した。流されることしかできない透明な、あの生き物が好きだから、海月という筆名なんだって。

 

 出会ってから10年が経った。

 いつからだったか忘れたが、Y美はY美でよくなっていた。わたしも大学に通ううちになんとなくよくなった。お互いにつらさを分かち合って乗り越えたとかそういうことではなく、ただなんとなく、透き通った痛みは時間の海に流され、溶けて消えたようだった。そのあいだもよく飽きずに一緒に遊んできたものである。

 この日は、-真天地開闢集団-ジグザグのライブを見たいとY美が言っていたがチケットに外れたので、もう自分たちの誕生日を祝ってやることにした。

 ホテルの最上階にあるラウンジでアフタヌーンティーとかいうものをしたが、Y美はいつもよりおしゃれをして歩いているということ以外はとても適当で、文芸部室で飯を食っていたときと同じくパンうめえとか言いながら咀嚼し、紅茶をばこばこ飲み、お湯を足してもらっていた。いやほんとうはゆっくり変わってはいるのだけれど、うれしかった。

 私はその日、気になっていた人からメッセージが返ってこなくなってしまったとか、そんなことで落ち込んで、気が変になっていた。

「私、指輪欲しい」

「いいよ。いこ」

そうしてふたりアウトレットに向かい、安いといっては失礼だが安い金属を売っている店に連れていってもらった。ひとりでは絶対に入れない。Y美は指が倍あっても足りないほど指輪を所有していたので、気持ちをよくわかってくれる気がした。Y美には彼氏がいる。

 諸刃のメリケンサックを欲しがっていた暴力癖の人差し指にあてがわれたのは、たなびく雲かいんげんの鞘を思わせる、もこもことうねる銀色の輪だった。確固たる存在感の硬い金属が、柔らかいふりをしている。これをわたしに売りつけた女の子はとても小さくてあどけない。わたしなんかに指輪を売ってくれてありがとうと抱きしめたい。私のことを抱きしめてくれるひとはだれもいないから。

 これを装備した拳ですべての壁に穴を開けてやろう。毎日新しい決心をしてやる。誰にも見えなくても。いや、誰かは見てくれているから。今日の白が絶対的なわたしだと思い込もう。

 ふたりでショーケースの前に立ち、これはああだそれはどうだとくだらないことを騒いでいるあいだ、なんでもっとかわいく生まれてこなかったのか、なんでもっと愛されるように育たなかったのかなどという悩みは馬鹿馬鹿しくなった。顔がなんだ、姿がなんだ、こんな銀の輪っかがなんだ。私はただ労働をする、着たい服を着る、つけたい指輪を買う、殴りたい壁を殴る。そのどこに他人の評価など関係あるのか。頼りにならない愛などいらない。

 今日は一日、Y美がとなりにいたから無敵になっちゃって、どのお店も怖くなかった、わたしたちが一番かわいいから。とは、言えない。駅で別れ際、これが終わったら破綻した自分の生活に戻るのだと気づき、つい悲しい眉をしてしまった。

「なんでそんな顔」

Y美は真顔で言って、いつもそうだけど、そそくさとホーム行きのエスカレーターを登っていって見えなくなる。

 みんな永遠に存在してほしい。柔らかいから無理だけど。あなたも、あなたも、あなたも。

 しあわせなんて形のない、やわらかいものだよ。勝手な形でいいよ。いつかまた海を漂うことになっても、そのときはこの日をしるべに流されることができればきっと大丈夫だと、嘘でもいいから信じてみてね。そう念じた。