試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

殺して

大爆死。自分が自分であることを優先したまま愛さることなどないのよって、そのまま愛されてる人に言われるのは本当に、殺意しかない。死ね。少しの同情もない。なるべくむごく死ね馬鹿。もうすぐ梅雨がおわりそうだねえと青木さんは言った。おわるのだ。雨も関係も気持ちも命もはじまりとおわりがあるということは、わかっていてもたまに忘れてしまうから、ふとしたおわりを見届けると泣いたりしてしまうね。馬鹿だね。何度繰り返しても……(ポエみが強くて自分でもキモい)……いいえ、ほとんど一度もない。ほとんど?いや、ほんとうに一度もないかもしれない。私だれかを愛したことがない。気持ちを大事にとっておいた。大事にとっておいた気持ちが、まえと同じように、まえっていうのはたとえば、朝が来て夜が来ますけどそれがどうかしましたか?あなたのような人間にはそれがお似合いなのだが(笑)というふうに、ふつうにおわってしまった。自分が死ぬときはどんな気持ちだろう。おわるところを何度も見てきたときは、なにも感じなかった。いとこが死んでその葬式で、嫌いな一族がみんな涙を流しているのを見て、ぼくはすこし愉快だった。死んだのは自分ではないのだから。僕が死んだらきっとみんなも愉快だろう。死ぬのはみんなじゃなくてぼくなのだから。そういうものだとおもう。しかたない。みんな自分がアイドルなのだ。花は枯れる。優しい人だからといって、必ず哀れんでもらえるというわけではない。愛されなかったことがこれから必ずいつか愛されることを保証するわけではない。優しいからといってそこから無条件に愛が湧いてくるわけではない。愛されたことのない者はそれを履き違えやすい。優しければ愛だと思ってるし、まあるい地球にはみんなに平等に愛が眠っているんだと、自分の都合のいいように考えてしまう。愛などない。永遠もない。人は死ぬし、死ぬ。どこまでいっても死だけが、完全な手段として存在し続ける。その対極には人間が作った神様という都合のいい存在があって、まともな精神を保つのに守ってくれる。それが信仰心だけど、ぼくは無宗教なので死という邪神に頼るしかない。人間関係がもつれたとき、本当は相手が悪いのに自分が悪いことになっているとき、相手が加害者であることを高確率で認めさせ、しかも同時に周知する方法。責任が自分ひとりにのしかかり、その分散先がひとりもいなかったときに、すべてを投げだして逃避する方法。悪手だけどね。自分の思いどおりにならないのがそんなに嫌なの?という言葉の威力はものすごい。いつかそれを言ってやりたいと思う。でも最近は、この言葉は、なぜ自分の思いどおりにならないといやなのか、自分の思いどおりにならなくてもべつにいいやと思える人との違いはなんなのか、あまり理解していない人がいう言葉だと思う。結局のところ、思いどおりにならなくてもいいやと思えるのはすべてが、その人の思いどおりになっているからなのだ。禅問答と思われるかもしれないがこれに尽きる。特に生得的に思いどおりになってない人というのは、その時点で不平等に敏感なのだ。なぜ彼らは思いどおりになるのに、私は思いどおりにならないのだろうという思いが強い。たとえばこれは、一人っ子だからわがままだとか、甘やかされて育ったからわがままだとか、そういうレベルの話ではない。樹形図のその一つ先の次元の話である。わがままを言ったときに、それを受けいれてもらえる人生だったか、そうでないかという話である。思いどおりになっている人は無意識のうちに願いが叶ってきたから、思いどおりにならなくて泣いている人を見たときに甘えるなと言いたくなってしまうのだ。スタートが違う。「くっっっつかない」本当にドリンクバーでジュース飲んでるのが楽しかったのだ。小学生のときみたいに公園で座ってぼうっとしてるのがよかったのだ。たぶんだからそういうところなんだよねポケモン友達たくさんいたりエンタの神様見て手を叩いて笑ったりハッテン場行ったり海行ったり山行ったり恋したりなんて私したくないんだもん少しも、だからあなたを嫉妬していた。家から追い出されて、鍵をガチャンと閉められたときでさえ、涙さえ出なかった。あなたのこと嫌いだったからもともと。そうやって、キツネとブドウの話じゃないけど、もともと嫌いだったと思いこみたいだけなのかもしれないけど、だとしても嫌い。発展トイレでうろうろしてる気持ち悪いおじさんのこと、実際に気持ち悪いっていう人は嫌い。私もいつかああなるもん。ちがう、もうすでにそうだもん。私は気持ち悪いおじさんなんだもん。気持ち悪いおじさんかわいそう。みんなが好きなものを一緒に好きって言ってるだけなのに気持ち悪いとか場違いとか言われてかわいそう。美しくないと死ぬ。かわいそう。