「ぼくは100%の日本人ではないですよ」と、韓国語訛りの日本語でいわれた。母音が激しくなまっているのですぐにわかりますよ、というのは失礼だと思ったので、あまりなにもいわないことにした。
すこし知っている韓国語で話しかけてみたが、すべて日本語で返されたので、そういうことをされるのはあまりうれしくないのかもしれない。
みんな謙遜する。でも部屋が汚いという謙遜をする人はあまりいないとおもう。部屋が汚いと事前に宣言する人の部屋はほんとうに汚い場合がおおい。
「部屋が汚いですよ」
彼はマンションの自室の鍵を開けながら言った。
助詞は不思議だ。この言い方には違和感がある。
「部屋汚いんですよ」と言ったほうが自然に聞こえる。
「部屋が汚いですよ」というと、だれかほかのひとの部屋を見て、その汚さを指摘しているような語感がある。
汚くなかった。控えめにこぎれいだった。駅近いワンルーム、上階、窓からのながめがいい。
部屋のすみに大量のワイシャツが、クリーニングからあがった状態で干されている。
「シャツをぜんぶクリーニングに出したんです」
仕事はお酒の営業です、といいながら、テレビの横のカラーボックスを指さす。いろんな酒瓶が並べられている。
ひとり暮らしの小さな卓のうえに、手に持っていたビニール袋から、お弁当屋さんの弁当が並べられた。冷蔵庫のなかから青いボトルのビールと、小皿にチョッカルが饗された。
「いっしょに食べましょう」
テレビを見ながら、ならんで夕食を食べた。きゅうに申し訳なくなってきて、ぎこちない動きになった。正座をするなとなんども言われた。
靴下はこまかく指定されたわりには、特に変態的な行為に用いられるわけではなく、終始彼の手が僕の足をなぜつづけている以外に変わったことはなかったし、これらの時間はどこかしらいいかおりがして、すみずみまできよく、あたたかく、とどこおりなくなめらかにすぎた。
靴下を履いている部分だけ切断されて偶像として崇められ、あとの身体は廃棄されることになったら悲しい。脳裏には映像がちらついたがもちろんそんなことはなかった。
ただ違和感があった。そとがわからは熱のとどかない、肉のおくふかいところにある氷が、うちがわから徐々に溶けだして、その微毒が長い時間をかけてじわじわと四肢を不能にしていくような感覚だった。