試論

恥さらしによる自我拡散改善法を中心に

迎合する


最近会った人と話をしたとき、ものをよく知っている人で、私の提示した話題を広げたり転換したり収束させたり、コミュニケーションの難しい部分はなにもかんがえなくてもいいように会話をコントロールしてもらえて、すごく心地よかったことがあった。

そういうことができるのは、ぼくよりもその分野に詳しいからなのだろうと思ったので、今度会ったときには相手の話題を全部拾えるように予習をしてこようと考えた。まずは山田詠美を読む。

中学のときは人と話を合わせるために無理にアニメを見たりしたが、自分がそういう趣向を楽しめないタイプのつまらない、頭のかたい人間だということを知るきっかけになっただけで、不毛だったので、そういうことはもうしたくないなと思っていたのだけれど。



大学一年のときノリで「安部公房が好き」などと口走ってしまったことがあった。その相手というのが映画サークルの会長だったのだが、とても文学に詳しい人だったので困った。全然好きじゃないのに話を合わせるために安部公房を読むという苦行に勤しんだが、結果的にサークルには別の理由で行かなくなったので無駄だった。

そもそもサークルなどというものに入るほど精神的に余裕がなかったが努力はした。文芸サークルは高校のとき文芸部だったこともあり、一度は入会したのだが、彼らの創作物はまず日本語として違和感があるものばかりで、それを心のうちでくさしている自分の高慢につけても暗い気持ちになった。



新歓の席では、よっぱらった先輩たちが延々アニメやゲームの話をしていた。
「なにか好きなアニメないの?」ときかれて、ないとこたえたら「なんのために生きているのか。ここに何をしにきたのか」とののしられた。
それから「まだ童貞でしょう?」ときかれて、ほかの新入生と声をそろえてそうですとこたえたところ「じゃあこれから卒業しにいこうか、おごるよ」ともちかけられたが、その時点でものすごく帰りたかったのでにんまりしてだまった。なんかそのへんからうまくいかなくなりやめた。




瀬戸内寂聴の『夏の終り』をずっと読んでいる。薄ぺらい文庫本なのに全然読み終わらないのは、段落ごとに読み返してしまうくせのせい。あと薄学なのでわからないことが多く、いちいち調べながらで読むことに異常に時間がかかる。

綾野剛小林薫で映画化されたときちょっとテレビで宣伝していた。女が不貞を重ねる心境を綴った、清新な自然主義的な私小説である(たぶん~)。
いちいち力強いながらたおやかな日本語を感じられて胸がすくような気持ちで読めますね。

ひとつめの「あふれるもの」という題名は、人夫である慎吾を独占できる時間は七割くらいで、あとの三割は本妻が埋めているわけで、その与えるはずだった三割の愛があふれて、涼太という別の男のところに注がれる、というような意味らしい。